自分という病

主に映画の感想 たまに変なことも書きます。あらすじは長いです。

映画感想 ラ・ヨローナ~泣く女~

『ラ・ヨローナ~泣く女~』

  (原題:The Curse of La Llorona)

2019年 93分 アメリ

評価 6点/10点満点中

 

ワイルド・スピード SKY MISSION』や『アクアマン』で好成績を叩きだし、ホラー以外のジャンルでも大活躍中の監督ジェームズ・ワン。彼が製作として携わる「死霊館シリーズ」に連なる本作。もちろん、ワンも製作として参加している。

「ラ・ヨローナ」は、ラテンアメリカの伝説に登場する幽霊で、概要は作中で語られたものとだいたい同じ。「泣く女」というモチーフはケルト文化の妖精「バンシー」に近いが、やっていることはギリシア神話の「ラミア」に似ている。歴史や文化を感じるホラーである。

ホラー映画としては古典的ともいえるほどオーソドックスな作り。ジャンプスケア、いわゆるビックリ演出が多いのが特徴で、それを嫌う人には辛い映画だと思う。ストーリーは可もなく不可もなくといった感じで、良くも悪くも凡作な出来。わーきゃー騒いで見る分には良い作品だろう。

 

 

 

 

あらすじ(ネタバレなし)

1973年、ロサンゼルスに住むアンナは、警察官である夫を亡くしてからも、息子のクリスと娘のサムとともに平和な生活を送っている。

児童相談所で働くアンナは、自身が担当しているアルバレズ家の子どもたちが学校を無断欠席していることを知ると、警察官とともにアルバレズ家のアパートを訪れる。アンナたちを出迎えたアルバレズ家の母親パトリシアは、顔色が悪く憔悴しきっており、アンナたちが家に入るのを拒絶する。異常を感じたアンナは、自分ひとりが入ることを条件にパトリシアを納得させ、アパートの部屋に入る。部屋には大量のロウソクが焚かれており、部屋中に護符やお守りが置かれている。無数の目が描かれて施錠されたクローゼットの扉を見つけたアンナがそれに触れると、パトリシアが凄まじい形相で彼女に襲い掛かる。中に入ってきた警察官によって取り押さえられたパトリシアは、「ドアを開けないで。もう一晩だけ待って」と絶叫する。連れ出されるパトリシアを見ながら、取っ組み合いのときに奪っていた鍵で、アンナはクローゼットを開ける。中には、パトリシアふたりの息子、カルロスとトマスが入っていた。

ふたりは福祉施設で保護される。アンナは彼らの手首に傷をみとめ、誰がやったのかを訪ねると、ふたりは「彼女がやった」と答える。

その夜、カルロスは目を覚ますと、トマスがふらふらと部屋の外に出ていくのを見て、あとを追いかける。廊下で立ち止ったトマスは、カルロスの背後を指さす。角の鏡に白いドレスの女が映っていて、カルロスは後ずさる。頭の上から水が落ちてきて、カルロスは足元に水たまりがあるのに気が付く。彼が顔をあげると、女の絶叫した顔が目に飛び込んでくる。

夜中、アンナは夫の同僚であったクープから電話を受け、カルロスたちが川で溺死したことを知る。子どもたちをともなって現場に向かった彼女は、子どもたちを車に残してふたりの死体を確認する。カルロスたちの死を悔やむ彼女のもとにパトリシアが現れ、息子たちの死はアンナのせいだと責める。警察官に連行されるパトリシアは、「ラ・ヨローナ」という言葉を口にする。パトカーに乗せられたパトリシアは、車に乗ったクリスを凝視して去る。

警察官だった父に憧れるクリスは、現場を見ようと、寝ているサムを残してこっそり車を出る。現場の近くに来たクリスは、女の泣く声を聞く。クリスは振り向くと、フェンスの向こう側に膝をついて泣く女を見つける。女はクリスに気づくと、立ち上がりゆっくり彼に近づく。逃げようとしたクリスの目の前に女が現れ、彼の手首を掴む。クリスの手首は焼けたようにくすぶる。女を振り払って車に戻るクリスだが、女は窓を開けて侵入を試みる。クリスがなんとか侵入を阻止すると、アンナが戻ってきて、三人は家に帰る。ベッドに入ったクリスは、自分の手に手形の傷ができていることに気づく。

この日を境に異常な現象に襲われるアンナと子どもたち。彼女たちは、悲しき「ラ・ヨローナ」の伝説を知ることになり、泣く女と戦う手段を探す。

 

 

 

 

 

 

 

感想(ネタバレあり)

ホラー映画の主人公、三割くらいシングルマザー説

前置きでも書いた通り、本作はホラー映画としては教科書のお手本のような出来をしている。シングルマザーの主人公、霊によりつけられた傷、助けにならない神父等々。ただ、習字のお手本に芸術性を感じないように、教科書通りに作ったからと言って面白い作品になるとは限らない。見終わっても物足りなさを感じるし、尖ったところがないので印象にも残らない。ある意味で最も損する位置にある映画かもしれない。

ホラー演出としてはジャンプスケアを多用している。唐突に幽霊が目の前に現れ、それに合わせて音が鳴るというやつだ。これに関しては賛否がわかれるところではある。恐怖というより驚きという点で気に入らいない人もいるだろうし、演出のひとつとして楽しめる人もいるだろう。個人的には別に嫌いではないのだが、本作ではくどいくらい多用されていたので、少々うんざりしてしまった。また、多用されると、どのタイミングでくるかが読めてしまうので、驚きも薄れていってしまう。ほどほどが肝要ということである。

良かった演出といえば、ビニール傘でラ・ヨローナが見えたり見えなかったりするやつだろうか。ビニール傘を通してみれば姿が見えて、傘を上げれば消える。ベールを通して見る風景は、現実から少しずれた感じがする。眼鏡とかでも応用できそうである。

物語の盛り上がりとして仕方のないことではあるが、終盤ではラ・ヨローナが出ずっぱりになり、彼女の存在の恐怖感がずいぶん小さくなってしまった。見えるか見えないかの瀬戸際。幽霊の恐怖が一番活かされるのはそこだろう。あまりに姿を現したままでいると、もはや殺人鬼スラッシャーと変わらず、幽霊のよさが死んでしまう。幽霊なのに死んでしまう。ごめんなさい。

 

十字架(物理)

ストーリーや設定に着目しても、やっぱり印象に残るところはほとんどない。全体の流れは、ホラー映画好きなら百回は見たような流れだ。それでもいくつかは、面白い展開や場面を挙げることはできる。

ホラー映画では『エクソシスト』以外神父や牧師は役に立たないので、本作でも元神父の呪術師であるラファエルが、聖職者に代わって幽霊に立ち向かう。彼は教会と確執があるようだが、どのようなものかは作中では明かされない。本作をフランチャイズ化したときようにとっているのだろう。

お堅い人物が多い役回りで、ラファエルは皮肉屋で策士という変わったキャラクターをしている。助けを求めにきたアンナたちを追い返そうとしたり、ラ・ヨローナに一撃浴びせるためにアンナたちを囮にしたりと、同じ「死霊館シリーズ」のウォーレン夫妻とは真逆ともいえる。しかしながら、子どもの助けには弱かったり、命を懸けて戦ったりと、性根は優しい。キャラとしては良くいるタイプかもしれないが、本作のようなホラーにこのタイプがいることは珍しく、他の作品でも見てみたいとすら思えた。

パトリシアの使い方もうまかった。悲劇に遭い、主人公を逆恨みして呪いをかけてくるキャラ。だいたいこういう奴は中盤であっさり死ぬのだが、パトリシアは終盤に登場して、見事なミスリードを生んだ。越えられないはずの種の線を越える足を見て、視聴者はハテなと思い、パトリシアを見て納得する。そのあとの行動の変化はやや性急なところもあるが、彼女も我が子を一心に思う母親なのだと思えばそれほど不自然でもない。

やっぱり本作で一番インパクトがあるのは、ラストのラスト、アンナがラ・ヨローナを炎の木の十字架でぶっ刺すシーンだろう。追いつめられたアンナたち、目の前に迫るラ・ヨローナ。倒れたラファエルは十字架を蹴りアンナに渡す。アンナは十字架を握りしめてラ・ヨローナに刺す。十字架の聖なる力と、炎の木というラ・ヨローナキラーのアビリティ、なにより刺さったら痛そうな形状の力により、ラ・ヨローナは消滅する。神を信じてるくせに十字架を蹴飛ばすラファエルにもツッコミたいのだが、意図を一瞬で察して十字架を突き刺したアンナも大概である。十字架が刺突武器ではありません。思えば、ラ・ヨローナは壁などを透過するシーンはなかった。彼女は移動するときには必ず扉を開いていた。ラ・ヨローナは物理的に触れられる。だから十字架も刺すことができた。実はゴーストタイプではななかったのだ。初めから刺せばよかったというのは言わないお約束だ。

アメリカではラテン系の移民が影響力を拡大しており、ハリウッド映画でも少し前まで見られなかったヒスパニック系のキャラクターが良く出てくるようになった。この移民が問題となり、あのトランプ大統領の誕生の一因ともなったのだが、そもそもアメリカは移民の国なので、やがてラテン系もアメリカという大国を彩る色となるだろう。

ラテンアメリカと言えば陽気なイメージがあるが、高い犯罪率やマフィアなども有名である。先住民の文明には人身御供の儀式があったり、やってきたヨーロッパ人は征服者として残虐の限りを尽くした。暗い伝説や民話がたくさんあっても当然なのである。文学でもルイス=ボルヘスガルシア・マルケスのように、幻想的で悲哀を感じるマジックリアリズムが有名だ。ホラー映画の題材はたくさん転がっているかもしれない。

 

 

まとめ

教科書的作品で、人と見るならそれなりに楽しめるが、ひとりで見ているとどうしてもだれてきてしまう。ジャンプスケアの多用も人を選ぶだろう。ただ、普段触れる機会の少ないラテンアメリカをテーマにした作品で、ラテンアメリカの持つ可能性を感じられる。コンキスタドールが求めたエル・ドラドはなかったが、ホラー設定のエル・ドラドはあるかもしれない。ただし『テリファイド』、てめーはダメだ。

映画感想 移動都市/モータル・エンジン

『移動都市/モータル・エンジン』

  (原題:Mortal Engines)

2018年 128分 ニュージーランドアメリ

評価6点/10点満点中

 

 

トレーラーがでたときから、見たいとは思っていた。いっぽうで、どこか地雷臭も漂っているし、自分が住む地方では上映していなかったので、ついぞ映画館に足を運ぶことはなかった。

いつの間にかレンタルが始まっていて、とうとう手を伸ばした本作。都市自体がキャタピラで動き、小さな都市は大きな都市を捕獲するという食物連鎖が存在する。作中の雰囲気はそれだけでご飯が進む秀逸さだが、大量に放り込まれる設定とキャラクター、早すぎる展開にキャラクターへの感情移入が追い付かない。原作はシリーズ化されている小説であり、二時間強の映画にするために、あまりに詰め込み過ぎたのかもしれない。

世界観は個人的には百億万点なのだが、それ以外の部分がお粗末。映像だけでも楽しめる人はある程度の面白さを感じられるだろうが、そうでない人にはつまらない作品だろう。

 

 

 

あらすじ(ネタバレなし)

「60分戦争」によりアポカリプスがもたらされて以来、人々はキャタピラをつけた移動都市で生活を続けている。移動都市は各地を転々とし、資源を採掘したり、自身より小さな都市を捕食することで資源を得たりしている。これを都市淘汰主義(ダーウィニズム)という。

巨大移動都市のロンドンは、半年前に陸橋をわたりヨーロッパ大陸に進出。小都市ザルツハーケンを捕食する。ロンドンの大英博物館に勤める史学士見習の青年トム・ナッツワーシーは、移動都市から見つかる古代の遺物オールド・テクを集めている。トムはザルツハーケンのオールド・テクを回収するために、下層に向かう。下層では、囚われたザルツハーケンの住民たちがロンドンに入るにあたり威圧的な検査を受けており、検査官がザルツハーケンの住民を殴ったことにより衝突が起こるが、その場に居合わせたロンドンの副市長ヴァレンタインが両者を止める。

歴史ギルドの長でもあるヴァレンタインは、ザルツハーケンの住民たちに丁重な扱いとロンドンでの不自由ない新生活を約束する。歓声を受けるヴァレンタインを、ザルツハーケンにいたマスクの女がナイフで突き刺す。女はマスクを取ると、そこには大きな傷があり、パンドラ・ショウという名前を口にする。傷は浅く、女はもう一撃を加えようとするが、トムに阻止される。解体されるザルツハーケンに逃げ込んだ女を、トムとヴァレンタインが別々に追う。解体ででたゴミを都市外へ吐きだすダストシュートまで女を追いつめたトム。女はダストシュートへ飛び込もうとするが、トムに腕を掴まれる。女は、ヴァレンタインが母を殺したと語り、戸惑うトムに対して、ヘスターのことをヴァレンタインに聞いてみろと言い、彼の手を振り払いダストシュートに落ちる。呆然とするトムのもとに、遅れてヴァレンタインがやってくる。トムが女の言っていたことを伝えると、突如ヴァレンタインはトムをダストシュートに突き落とす。駆け付けたトムの友人で娘のケイトに、トムは女ともみ合って落ちたとヴァレンタインは語る。

都市がつけた轍で目覚めたトムは、ヴァレンタインに突き落とされたことに戸惑いながらも、近くにいた傷の女とともに、ロンドンへ帰るために交易都市を目指す。女は多くを語らないが、トムは女自身がヘスターだと知る。夜、古い記憶の夢から目覚めたヘスターは、近くにトムがいないことに気が付く。トムは轍の外で、近づいてくる移動都市に手を振っている。ヘスターはそれが南方にいる奴隷商のサウジーだと気づく。サウジーは都市から銛を撃って二人を捉えようとする。追いつめられた二人だが、地面に潜っていた虫を模した乗り物に乗っていた老夫婦に助けられる。しかし、ヘスターは足に傷を負う。

ヴァレンタインは、自身が進めるエネルギー計画が進まないこと、彼の提案でヨーロッパ大陸にやってきたのに成果があがらず、蓄えが尽きかけていることを、市長になじられる。ヴァレンタインは研究所にしている聖ポール大聖堂へと赴き、ザルツハーケンから回収したオールド・テクを研究員に渡すと、開発を急ぐように発破をかける。ヴァレンタインはそこで、ある復活者が刑務所都市に捕らえられたこと、その復活者がヘスターのことを探し回っていることを聞く。ヴァレンタインは復活者に会うために、刑務所都市へと飛ぶ。一方でケイトは、父が嘘をついてなにかを隠していることに気が付き、独自に調査を始める。

 

 

 

 

 

 

 

 

感想(ネタバレあり)

動くは街、動かないのは心

ティム・バートン作品ばりにVFXを詰め込んだ本作。いきなり、小都市ザルツハーケンを大都市のロンドンが襲うというところから物語は始まる。虎のごときロンドンが、ネズミのように矮小なザルツハーケンを追う。移動都市のタイトルにたがわず、戦車にも生物にも見える都市の動きがVFXを使ってまさしく生き生きと描かれている。

しかし、本作のVFXあるいはCGIは、どこか違和感がある。質感が、すごくリアルなゲームといった感じで、実写の人物や物とはどうも浮いているように見え、チープさがある。とくに、シャングオの山並みなどはものすごくのっぺりしている。いっそのこと、3DCGアニメーションとかのほうがよかった気もする。

ただ、作品の雰囲気は抜群にいい。広い湿原を足やキャタピラをつかって移動する巨大都市。錆びた鉄に無造作に伸びるパイプ。噴き出す蒸気が鼻をつき、歯車のうなりが鼓膜を震わす。蟻の巣のような街を人々が動き、自由な空を魚とも鳥ともつかない形の飛行船が飛ぶ。虫のような移動家屋を構える奴隷狩りたちがいて、遺物はロマンと危険を過去から運んでくる。

この雰囲気と世界観で三日くらいご飯が進みそうだ。ゲームにしたらめちゃくちゃ面白そうなのに。ストーリーを進まず一週間は街をうろうろするだろう。ポストアポカリプスの世界で、基本的にはスチームパンクなのだが、山のような形の移動都市の複雑さや人種の多様さなどはサイバーパンクの風味もあるが、印象としてはド直球なスチームパンクで、映画界では、特に実写映画では見るに久しい。

ただ、これらの世界観を支える設定や登場人物の雑多さが、ストーリーを楽しむための妨げになっているように思う。

まず、独自の用語が多すぎる。反移動同盟とか楯の壁とか陸橋とか大傾斜とか。このあたりは文字を見ればだいたい理解ができるのでまだましだが、復活者などはさっぱりわからない。

登場人物ひとりひとりの掘り下げが足りないために、感動的なシーンもうすら寒く見えてしまうし、必要性が感じられないキャラもいる。それらのキャラにも中途半端に焦点を当てるため、頻繁にシーンが移り変わってストーリーも掴みにくくなる。

具材の種類を増やしたせいで、ひとつひとつの質がえらく下がってしまった幕の内弁当といった感じ。それなら美味しい唐揚げ弁当を食べたいのだ。

 

畳めぬ風呂敷、畳んだ企画

これほど設定やキャラが複雑になったのにはなにか背景があるのだろうかと考えると、映画のシリーズ化を狙ったのかもしれない。そもそも原作が四部作構成らしいので、のちのちの作品のために風呂敷を広げておいたのだろう。ヴァレンタインもひょっこり生きていそうだし。ただ、本作は批評的にも売り上げ的にも爆死している。残念ながら、よほどのことがない限り次回作はないだろう。

主人公のヘスター・ショウ。序盤は名前も明かされない彼女。これは日本語字幕版のせいなのかもしれないが、トムが突然彼女のことをヘスターと呼び、少し前から上がっていたヘスターとは彼女だったのだと視聴者は気づく。この時点でなんだか置いて行かれている感じがするのだ。

彼女と復活者シュライクのくだりは、とくに映画と視聴者の乖離が激しいだろう。ヴァレンタインがシュライクのことを語るとき、復活者だとかラザロ旅団の生き残りだとかわけのわからないことを言い出す。ラザロ旅団とは結局なんのことなのかわからなかった。そう思ったら皮をはいだターミネーターみたいなのが現れる。それがターミネーターのごとくヘスターを追いかける。ヴァレンタインに母を殺されて逃亡していたヘスターは、シュライクに拾われて生き永らえ、彼から養育を受けることになる。

復活者とは、かつて人間だったものが機械の体に精神あるいは記憶を引き継ぐこと。その際に一度死ぬので復活者。機械の体になったあとは、あらゆる感情がなくなって、苦しみから解放されるという。おそらくオールド・テクというか、滅びた文明の技術なのだろうが、ちょっと理解するのに時間がかかり、その間にも物語はポンポン進む。

復活者になることを約束したのに、ヴァレンタインが殺せるチャンスを知ったヘスターはシュライクのもとから逃げ出す。シュライクは怒って彼女を追いかける。あらゆる苦しみから解放されるはずなのに、器の小さいやつである。

案の定だが、シュライクはヘスターがトムを愛していることに気が付き、彼女が変わったことを知る。シュライクはヘスターを許し、彼女にパンドラが残したものを返す。停止するシュライクのメモリーには、二人の生活のなかで笑うヘスターが映る。感情を失ったはずのロボットが、娘とも呼べるヘスターとの出会い、そして娘の成長を見て人間性を取り戻すも、死によって別れなければならない感動の場面、、、なのだが、シュライクとヘスターの関係性に関して下地がなく、急にぶっこまれた感があるので、全然感情移入ができない。流れる音楽やヘスターの表情ばかりが悲壮で、見ているほうはあくびがでてくる。そもそも、ヘスターはいつも悲しんでいるから、それから解放するために復活者になることを提案したのはシュライクなのに、彼の記憶に笑顔のヘスターがあるのはどういうことだろう。アンと仲間たちの死に関してもそうだが、まだ視聴者が受け入れられていないキャラの死を見せられたところで感動ができない。寒いし稚拙なだけである。

いろいろツッコミたいキャラはいるのだが、全部上げると長くなるので、あとはヴァレンタインとその娘のケイトだけにしておく。

ヴァレンタインも謎の多いキャラで、彼がいかにして古代の兵器を復活させてシャングオを攻めようと思ったのか、それがまったく描かれていない。せっかくのヒューゴ・ウィービングなのに、少しも魅力が感じられない。彼は自身の妻や、娘すらも殺したり見捨てたりする畜生なのだが、その背景が存在しないので、非常に薄っぺらいのだ。この作品全体を通していえることだが、キャラの動機が見えてこない。動機なく動く機械のようなキャラには、見ているほうは感情移入できない。

娘もケイトは親とは打って変わって善玉で、上層の民だが差別はせず、ヘスターとは対照的な優しく親しみのある女性である。ただ、彼女の正義感が強いのはわかるのだが、父の非道を知ったとき、もうあんな奴は父じゃないと、豹変して断言する。この変わり身はちょっと怖い。もう少し葛藤があってしかるべきじゃないだろうか。どうしてこうも0か1かなのか。しかも、このあとに父に対抗する場面があるわけではなく、ヘスターたちがヴァレンタインを追いつめたあとひょこっと出てきて、特別活躍するわけでもない。正直、彼女はいてもいなくても変わらないキャラで、そんなキャラに尺を割くくらいなら、もっと主役たちを丁寧に描いて欲しかった。

最後に設定へのツッコミ。作中世界では、60分戦争によって世界中が荒廃して、人類は移動都市に住み、わずかな資源を求めて移動を続けて、ときには他の都市を襲って資源を奪う生活を続けている。しかしながら、反移動都市の本拠で、定住都市であるシャングオは、ロンドンよりもはるかに豊かな街並みをしている。シャングオは資源が足りていない様子もなく、作品の根幹である移動都市の必要性を揺るがしている。あれほど豊かに暮らせるのであれば、移動を続けなくてもいいのではないだろうか。おまけに、最後は停止したロンドンを離れた住民たちは、シャングオに迎え入れられる。これを見るに、シャングオがカツカツな様子もない。そもそも、世界は大きな湿地や草原が広がっており、資源が不足していたり、土地が汚染されている様子もない。描写や設定が、肝である「移動都市」に矛盾や無理をもたらしている。また、都市が都市を捕食する「都市淘汰主義」が実際に描かれるのも、冒頭のロンドンがザルツハーケンを飲み込む場面だけである。トレーラーのときは、こういうのがもっと続くものだと思っていたのだけどなあ。

 

 

まとめ

世界観や雰囲気、ひとつひとつの設定はスチームパンク風で抜群に優れている作品。いっぽうで、ストーリーやキャラ、複雑な設定が矛盾やズレを引き起こし、褒められるところは少ない。ゲームしたら面白そう。その一言。

映画感想 7 WISH/セブン・ウィッシュ

『7 WISH/セブン・ウィッシュ』

  (原題:Wish Upon)

2017年 90分 アメリ

評価 7.5点/10点満点中

 

 

もしなんでも願いが叶うなら、あなたはなにを願うだろうか? まあ、普通にお金が欲しいとかそんなところだよね。とりあえず百億欲しい。ちゃんと税金払うから。

残念ながら、現実では願い事が叶うなんてことはない。すくなくとも、お空に向かって叫ぶだけではなにも叶わないだろう。魔法のランプもドラゴンボールもないのだから。

本作はタイトルの通り、七つの願いが叶う箱を手に入れた女子高生が、その願いの代償に苦しめられるという話。ホラー映画ではよくある、願いと代償の等価交換が割に合わない系だ。

ホラーではあるがけっして重たくはない、コメディ寄りの作品である。90分と見やすい尺であり、ティーン向けホラーのお手本のような作品だろう。

 

 

 

 

あらすじ(ネタバレなし)

女子高生のクレアは、父とともに貧しい暮らしをしている。父は廃品回収で生計を立てており、クレアはそのことで学校でからかわれながらも、親切な隣人や親友に囲まれて平凡に暮らしている。ただ、幼いころに目の前で自殺した母のことだけが、彼女を悩ませている。

ある日、父は大きな屋敷の近くで、中国風の装飾が施された箱を見つけて家に持って帰る。学校でクイーン的存在のダーシーと取っ組み合いの喧嘩をしたクレアは、隣人のデルーカから手当てを受けて家に帰る。帰ってきたクレアに、父は誕生日プレゼントだと言って、拾ってきた箱を贈る。学校で中国語を習っているクレアは、箱に書かれていた「七つの願い」という言葉を読み取る。ダーシーがSNSで自分のことを罵っていると知ったクレアは、「ダーシーが腐ってしまうように」と箱に願う。

その夜、箱がひとりでに開く。箱はオルゴールで、勝手に音楽が鳴る。しばらくすると音楽は止み、箱はまたひとりでに閉じる。

翌朝、クレアは友人のメレディスから、ダーシーが壊死性筋膜炎という病気になったことを聞き、顔の一部が黒く変色したダーシーの写真を見せられる。ダーシーの友人たちが彼女のためにと寄付のお願いをしにくるが、メレディスが彼らを追い払う。クレアはこの偶然を奇妙に思いながらも、ダーシーの身に降りかかったことにほくそ笑む。

家に帰ったクレアは、愛犬のマックスの姿が見えないことに気が付く。音をたどって床下に潜ったクレアは、ネズミに食い荒らされたマックスの死体を見つける。マックスの死に悲しみながらも、クレアは父やデルーカとともに死体を埋める。

箱の文字が気になったクレアは、学校の中国語の先生に写真を見せるが、古い中国語だからわからないと言われる。その様子を見ていた中国系のクラスメイトであるライアンが、知り合いに専門家がいるから尋ねてみるかと提案するが、クレアは断る。

クレアの片思いの相手であるポールには恋人がいる。恋を成就させたいクレアは、箱にポールが自分に惚れてくれるようにと願う。すると翌日、今までほとんど話したこともないポールが彼女に声をかけてくる。有頂天になるクレアだったが、家ではオルゴールが鳴り、近所に住む親せきのオーガスト伯父さんが浴槽で頭を打って死ぬ。家に帰って来てオーガスト伯父の訃報を聞くクレア。オーガスト伯父と父は折り合いが悪く、資産家だった伯父の遺産は一文たりとも自分たちに入らないと知る。些細なことで父と喧嘩したクレアは、いきおい箱に遺産がすべて手に入るように願う。まもなく、父に電話がかかってきて、オーガストの遺産がクレアのものになると伝えられる。さっそく伯父の豪邸に越したクレアは、友人のメレディスとジューンとともに豪遊し、パーティーを開く。

幸福に満たされていくクレアの人生。しかし、重すぎる代償を払わされることを、まだ彼女は知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

感想(ネタバレあり)

誰かの願いが叶うころ

願いが叶えられるたびに、身近な人が死んでいく。そして七つ目の願いが叶ったときには、願った者自身の命が失われる。それが本作のオルゴールのルールである。

ホラーにはよくある設定で、その点に目新しさはないが、脚本は綺麗にまとまっているしキャラクターも立っている。恐怖という点でホラー感はないものの、「ファイナルデスティネーションシリーズ」に近い面白さがあるだろう。

代償となる犠牲者は願うたびに身近な人物になるようだ。はじめのマックスと四番目のジーナは例外としても、二番目はオーガスト伯父、三番目はデルーカ、五番目はメレディスで六番目は父、そして最後は自分自身だ。こうすることで、箱は自分の仕掛けを使用者に気が付かせて追いつめているのかもしれない。

犠牲者の死に方に工夫を凝らしているのは評価できる。淡々と死んでいくのではなく、どうやって死ぬのか、どちらが死ぬのかが丁寧に描かれている。この点は「ファイナルデッドシリーズ」に似ている。

料理をするデルーカ。彼女が犠牲になることはわかっていながらも、排水口についたディスポーザーに巻き込まれるのか、火の点いたヤカンで火傷を負うのか、視聴者の視線を画面から離さない工夫が見て取れる。「ファイナルデッド」のようなピタゴラ感はさすがにないが、十分に面白い。

メレディスと父のどちらが犠牲になるのかも、なかなかにハラハラする展開だ。かたやエレベーターでかたや車の故障。二人ともキャラが良いだけに、どちらが死んでも惜しいと思わせる。

ラストも予想のできた展開だが良い締めになっている。また、エンディング後にあるライアンのシーン。箱を埋めるように頼まれた彼だが、箱に書かれた文字を見てなにかを考える。彼がクレアを生き返らせるように願って、悲劇がループされることを予期させる。面白いおまけだ。

総じてストーリーは丁寧に作られている。ただ、箱に憑りつく?悪魔(ヤオグアイ)を掘り下げなかったところは物足りない。

 

シャノン・パーサーの親友力

キャラクターの良さもこの映画の見どころだ。とくに主人公のクレア、親友のメレディスとジューンは際立っている。

クレアは家庭環境を周囲にからかわれるが、けっして縮こまったりせずに、むしろクイーンビーのダーシーを罵って喧嘩をしかけるという強さを持つ。まじめに「チコウ」ってなんだろうと考えた時間を返して欲しい。

しかしながら、彼女は強いだけの少女ではなく、母のように自分が自殺するのではないかと悩んだり、他愛もないことを願ったり、願いが叶うたびに大切な人を失いながらも箱に執着してしまうなど、とても等身大なキャラクターだ。彼女がなかなか箱を手放さないことに苛立ちを覚えながらも、共感できる部分も大きい。途中で覚醒したかのように強くなることが多いホラー映画のヒロインとしては、とても身近に感じられるキャラクターである。

親友のふたりは、自分の友人にも欲しくなるキャラをしている。

メレディスは個人的に一番のお気に入りだ。ダーシーのために寄付にきたジョックたちに中指を立て、クレアとダーシーの喧嘩では加勢しようと闘志をむき出しにしている。大金を手に入れたクレアからカバンを買ってあげると言われて、親友だからそんなことはしないと拒否して、友人思いなところを見せる(結局は買ってもらったが)。クレアに箱のことを相談されたときに、悩める友人に自己チュー女と言えるところも、彼女たちの仲の良さを表している。口や態度は悪いが、心の底から友人を思っており、理想的な気の置けない友人だ。

ジューンはもう少し変わっていて、クレアとメレディスに比べると口数が少ない。基本的にふたりを諫める立場にある。箱の代償に悩むクレアに真っ当なアドバイスを与えたりした。けれども、躊躇なくクレアにバッグをおねだりしている。このシーンは彼女の強かさと、彼女たちの友情の強さを物語っていて、それまで薄かったジューンのキャラが一気に立ったシーンだろう。メレディスの件で一度はクレアを責めたものの、盗みにはいるというそれまでの彼女からは想像もできないほど大胆なことをしてまで、親友の命を救おうとする。メレディスといい、実に良い友人キャラだ。

ジューンを演じるシャノン・パーサーは、Netflixオリジナルの『ストレンジャー・シングス』で、主要キャラのナンシーの親友であるバーバラを演じている。登場回数は少ないキャラだが、ジューンと同じく友人思いであり、シーズンを重ねて様々なキャラが登場しても、忘れられないキャラだろう。シャノン・パーサーは主人公の親友を演じさせればピカイチなのだろう。

この三人のキャラが良すぎて、彼女たちを見ているだけで面白い映画になっている。そのぶん、ライアンの印象が薄いのがもったいないかもしれない

 

 

まとめ

まとまった丁寧なストーリーに共感できるキャラクターたちと、傑作というわけではないが良作といえる作品。ホラーを期待してみると物足りないだろうが、一風変わった青春映画として見れば、満足度の高い作品だ。

 

映画感想 ヘル・レイザー

ヘル・レイザー』(原題:Hellraiser)

1987年 94分 イギリス

評価 7点/10点満点中

 

サディズムマゾヒズム。「異常性欲」に分類される性癖だが、現在では「SかMか?」という問いは、「好きな芸能人は?」と同じくらいにポピュラーだ。Sっ気があるというのは少々強引で、Mっ気はリードされたいくらいのニュアンスで使われていることが多い。だが、本来のSMはもっと痛々しいものだ。

ヘル・レイザー』はSMがテーマのホラー映画である。フランク・コットンは究極の快楽のためにパズルボックスの封印を解き、異世界で永遠の苦痛に囚われることになる。それから時間が経ち、偶然にも不完全な形で復活したフランクは、かつて関係のあった弟の妻を唆して復活を試みる。

評価には賛否両論あるものの、シリーズ化される人気を得た作品。半ば溶けた肉を身にまとうフランクの姿や、派手さのない生々しく痛々しいゴア描写。なによりもピンヘッドをはじめとする異世界の魔道士「セノバイト」たちが有名な作品。セノバイトは漫画『ベルセルク』に登場する「ゴッド・ハンド」をはじめ、さまざまなキャラクターのモデルになった。見てると痛くなる映画だが、ホラー映画の歴史に名を刻む一作であり、素晴らしいキャラクター造形に引き込まれる。『ベルセルク』が好きな人は一見の価値ありだ。

 

 

 

 

 

あらすじ(ネタバレなし)

フランク・コットンは、ある商人から細工のされた箱を買う。フランクがその箱を使って儀式に臨むと、箱はパズルのように形を変える。どこからともなく鉤のついた鎖がいくつもとんできて、フランクの体を引き裂く。黒衣の男が現れて、ばらばらになったフランクの肉片をつなぎ合わせて彼の顔を作ると、パズルボックスを組み替える。

それから時間が経ち、フランクの弟であるラリーが再婚相手のジュディとともに、母が亡くなってから空き家だった実家を見に来る。なかを見ていると、ジュディは人が住んでいた形跡を見つける。ふたりは住んでいたのがフランクだと察する。ラリーは娘のカースティとの電話で一緒に住もうと提案するが、カースティは独り立ちしたい断る。引っ越しに不満があったジュディだったが、結局は納得して、二人はこの家への引っ越しを決める。

引っ越しの日、ジュリアはフランクの残していた写真から、自分と彼が二人で写ったものを取り出して引き裂く。ジュリアはフランクと肉体関係にあったことを思い出す。ジュリアは三階にあがり部屋のひとつにはいる。そこはフランクがパズルボックスの儀式をした部屋であり、ジュリアはフランクとの情事、関係を続けるためならなんでもすると彼に言ったことを思い出す。そこに、ベッドの搬入で手に傷を負ったラリーがやってくる。深い傷を負ったラリーを、家に来ていたカースティとともに病院へと運ぶ。床に流れたラリーの血が床板に吸い込まれ、その下にある肉片がうごめく。床板が浮き上がると、どろどろに溶けた肉片が現れて、寄り集まると人型になる。

ジュディは引っ越し祝いのパーティーを体調不良を言い訳に抜け出すと、三階の例の部屋へと向かう。ジュディはそこでフランクを名乗る溶けた人間を見つけて驚く。ラリーの血でよみがえったと言うフランクは、完全復活のためにはさらに血が必要で、そのためにジュディの助けを求める。ジュディはしばらく考えたあとにそれを承諾する。一方で、カーティスは路上で不気味な男に出会い、父が死ぬ夢を見る。

ジュディはバーに行くと、隣に座っていた男を自宅に誘う。男を三階の部屋に連れて行くと、後ろから鈍器で殴打する。フランクは男の死体に近づくが、ジュディは部屋から追い出される。完全に復活したなら、どこか遠くへ逃げようとフランクは言う。セノバイトから逃げるために。

 

 

 

 

 

 

 

 

感想(ネタバレあり)

我々の業界でも拷問です

本作における重要なテーマが、「苦痛と快楽」である。序盤でフランクがパズルボックスを開き、鉤と鎖に身を引き裂かれるという痛々しい場面がある。フランクは快楽を求めていたらしいが、彼は極端なマゾヒストなのだろうか? それならどうしてセノバイトから逃げ出したのだろう?

この点に関して映画では説明不足だが、原作では説明されているらしい。英語のwiki情報になるが、フランクは快楽主義者であり、人に究極の快楽を与えるというパズルボックス(ルマルシャンの箱)を求めていた。そして彼はそれを手に入れて、いざ快楽を味わわんとたぶん全裸で挑んだのだろうが、でてきたのが綺麗なお姉さんではなく、スカリフィケーション(火傷でできるケロイドで体に文字や絵を刻むこと)を施した恐ろしいセノバイトであることに仰天。それでも快楽が手に入るならと、契約は覆せないよというセノバイトの忠告を聞かずに契約。するとぶっ飛んだSMプレイが始まったもんだからフランクは後悔し始める。しかし、時すでに遅く、彼は永遠にセノバイトに囚われてしまうことに、らしい。つまるところ、期待しながら風俗店にはいったら、お姉さんではなく刺青のお兄さんが出てきて痛めつけられるということだ。フランクにとってもセノバイトのプレイは予想外のものであり、彼が逃げ出しい理由はそこにある。ちなみに、原作ではラリーの血と床にしみ込んでいたフランクの精液が混ざったことで復活できたらしい。のちのお楽しみを想像して自家発電に耽っていたのだろう。

セノバイト界隈では、体を引き裂かれることは究極の快楽らしい。現実世界でも、自身の性器を切開することに快楽を見出す人間や、スカリフィケーションというものがこの世界に存在する。今回の感想を書くにあたりいろいろ調べたのだが、見てるだけで寒気がするほど痛い。

我々の業界でも拷問です、とフランクも思ったようで、セノバイトは人間の理解を超えた恐怖の存在らしいのだが、いかんせん登場するシーンが少ないうえに描写が断片的なので、あんまり恐怖を感じない。むしろ主人公のカースティを助けることになるので、善玉にも見えなくもない。

セノバイトのデザインは秀逸だ。リーダー格のピンヘッドも当然だが、喉を切り開かれたフィメール、腹が割けているサングラスのバターボール、ねじれた顔のチャタラー。四人とも格好や雰囲気は似ているのだが、すぐにそれぞれの違いが分かるほどに個性的だ。ほかにもセノバイトの次元にいた怪物も、チープさはあるが生理的嫌悪を感じるデザインをしている。痛々しいSMのモチーフが活かされた素晴らしいデザインである。自分たちの獲物が逃げていても気が付かないし、パズルボックスで瞬殺されるお茶目な面もあるのが面白い。

 

マゾヒズムNTR

本作はティーンの少女が主人公のオーソドックスなホラーであるとともに、ジュリアという中年女性のお話でもある。むしろジュリアがメインパートだろう。

優しく誠実なラリーにたいして、快楽ばかりを求めるフランク。対照的な兄弟だ。ジュリアは戸惑いながらも、フランクの求めることに応じて殺人にまで手を染める。ラリーというものがありながらと思ってしまうが、フランクのもつ危険な雰囲気に惹かれたのだろう。また、夫の兄弟という背徳感もあったのかもしれない。フランクがジュリアに手を出したのも、弟の妻を寝取りたいくらいの動機なのではないだろうか。

ラリーは実に可哀そうなキャラクターで、自分の妻が昔から兄に寝取られていたことも知らず、最後には訳もわからぬまま殺されて、姿を乗っ取られる。彼は非常に妻と娘に優しい人物として描かれていおり、彼の不遇さがよく際立っている。ラリーはすごくサディスティックな扱いを受けている。

マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』では、主人公が最後に愛人を寝取られてしまう。彼自身はマゾヒストではないが、ラリーはマゾヒズムの正統にいるようなキャラクターだ。

それほど恐ろしくないセノバイトに代わって、ホラー要素を一手に担うフランク。夫から寝取った女を利用した挙句殺し、弟も殺す。皮膚が剥がれて肉がむき出しになった姿も相まって、実に恐ろしい。彼自身が暴れまわるのは終盤だが、ジュリアを唆して血を手に入れるさまは、セノバイトと比べるとどっちが悪魔かわからなくなる。

主人公のカースティが平凡なキャラクターだったのが残念。また、彼女をストーキングしていた男の正体もよくわからない。パズルボックスの化身とかセノバイトの使い魔みたいなものだろうか。セノバイトの登場シーンも増やして欲しかった。

 

 

まとめ

SMホラーという新境地を開いた作品。全体的な出来はそこそこだが、優れたモンスターデザインはのちの作品に大きな影響を与えた。セノバイトを見るために視聴してもいいだろう。

 

おまけ

ピンヘッドを美少女化したフィギュアがある。モチーフは踏襲しながらも見事に美少女となっている。スキンヘッドだが。ちなみに、ジェイソンとフレディも美少女フィギュアになっている。

 

映画感想 フェノミナ

フェノミナ』(原題:Phenomena)

1985年 116分 イタリア

評価 7点/10点満点中

 

 

虫に嫌悪感を抱く人は多い。小さい頃は憧れだったカブトムシや網で捕まえたバッタやカマキリが、いまは視界にいれるのも憚れる存在だ。大人になると虫が嫌いになるのはどうしてなのだろうか。

人間が虫を嫌いなのは古くからの性質のようで、日本の古典には「虫愛づる姫君」という話がある。主人公の姫君は大の虫好きで当時の風習に頓着しない変わり者で、彼女を通して当時の社会を風刺しているとかなんとか。

フェノミナ』の主人公も虫を愛して、さらには彼らと交信することができる。虫とつながる少女が殺人事件に巻き込まれるスリラーほらーである。主演はビューティフル・マインド』で各種映画賞を受賞した若かりし頃のジェニファー・コネリー。超自然的な能力と殺人事件という組み合わせは、同じダリオ・アルジェント監督の『サスペリアpart2』と似た組み合わせで、同監督の他の作品と同じくゴブリンの音楽がとても印象に残る。作品の性質上、虫やグロテスクな描写が多いので、鑑賞の際は注意してもらいたい。

 

 

 

 

あらすじ(ネタバレなし)

スイスのチューリッヒ郊外。バスに乗り遅れた少女が、近くにあった民家で何者かに襲われて殺される。

少女を狙った連続殺人事件を捜査している警察は、チンパンジーを飼う風変わりな昆虫学者のマクレガー教授に、切断された遺体の頭部を見せる。教授は遺体に湧いた蛆虫の種類から殺害された時期を割り出す。自身の知り合いで行方不明になっている少女も殺されているだろうと考えた教授は、警察からの捜査協力を快諾する。

チューリッヒのリヒャルト・ワグナー学校に、一人の少女が転校してくる。彼女の名前はジェニファーといい、父は有名俳優で、撮影のために世界を飛び回っている。ワグナーが住んでいた屋敷を改造した寄宿学校で、ジェニファーはさっそく同室のソフィと仲良くなる。近ごろ連続殺人があり、ひとりで寝るのが不安だったとソフィは語る。

眠っていたはずのジェニファーは目を覚まして校内を歩き回り、古い建物に行きつく。窓から中を覗いたジェニファーの目の前に血塗れの少女が悲鳴をあげて現れ、少女は窓ガラスを突き破る。ジェニファーが驚きで声も出せずにいると、少女の口から槍のようなものが突き出る。後ずさりしたジェニファーは二階の縁から転落する。呆然としたジェニファーは道路に飛び出し車に轢かれる。車を運転していた若者ふたりはジェニファーを車に乗せるが、パニックになった彼女は車の外に出て、道路わきの坂を転げる。そこにマクレガーが飼うチンパンジーのインガが現れ、彼女をマクレガー宅へと連れていく。

マクレガーはジェニファーに怪我がないことを確かめると、彼女と虫の話で親睦を深める。連続殺人の話題も出て、ジェニファーはマクレガーの知り合いの少女も犠牲になっていることを知る。ジェニファーはマクレガーからコートを借り、夢遊病の対策方法も教えてもらい、学校へと戻る。

学校へと戻ったジェニファーは脳波の検査を受けることになる。検査では異常な結果がでて、教員たちは彼女に精神病を疑うが、ジェニファーはそれを否定する。学校では、ジェニファーの夢遊病のことが生徒たちに口にのぼる。

ジェニファーも自分の夢遊病が不安になり、ソフィに眠っているあいだ見張るように頼む。了解したソフィだったが、ジェニファーが眠ると部屋を出て彼氏と落ち合う。ソフィは別れ際に彼氏と喧嘩をしてしまいひとりになってしまい、そこに槍をもった人物が現れる。逃げだしたソフィだったが、捕まってしまい殺される。夢遊病で体が動き出したジェニファーだったが、部屋を出るまえに目を覚まして、ソフィがいないことに気が付く。心配になり外にでたジェニファーを導くように一匹の蛍が飛ぶ。蛍に導かれた先で手袋を拾ったジェニファーは、それに蛆虫がついていたことでソフィが殺されたと直感する。

蛆虫のことを知るために、ジェニファーはマクレガーのもとを訪れる。彼女はマクレガーに自分の力のことを話し、彼の本をもらう。学校に戻ったジェニファーは、教師たちが彼女が父にあてた手紙を読んでいるのを目撃する。虫と気持ちが通じるという内容に、教師たちは彼女を異常だとみなす。手紙を読まれたことに怒ったジェニファーは手紙を取り返すが、生徒たちが彼女をからかい始める。たくさんの生徒に追いつめられたジェニファーの怒りに呼応して、無数の虫が建物を覆う。ジェニファーはそのまま気を失ってしまうが、校長は彼女と悪魔のベルゼブブを結び付けて、病院への強制入院を決める。目を覚ましたジェニファーはこっそり学校を抜け出し、マクレガーのもとへ身を寄せる。マクレガーは手袋にいた蛆虫の種類を同定し、その虫を使って犯人を捜すことを提案する。ジェニファーはソフィのためにも、犯人捜しを始める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

感想(ネタバレあり)

 

設定もりもりジェニファーちゃん

本作の主人公のジェニファー・コルビノ。まさしく絶世の美少女のジェニファー・コネリーが演じる彼女は、昆虫と交信できるということ以外にも設定がたくさんある。

まずは世界的俳優の娘だということ。残念ながらこの設定が活かされていることはほとんどなく、父親はちらりとも出てこない。ラストに父親の代理人が助けにくるが、これは別に父が俳優でなくてもいい。ソフィと父のことを話すが、かなりぼかされた表現のされかただ。

次に菜食主義。だが食事シーンはないし、特段に動物を愛護している様子もない。ちらっと会話の端に出すにしてはうがった設定すぎやしないか。

夢遊病もよくわからない設定だ。ジェニファーが夜に歩き回る設定を作りたかったのかもしれないが、せっかく虫と心が通じるのだから、虫に導かれて外を出歩くのではダメだったのか。

ひと昔前のラノベヒロイン並みに盛られた設定のジェニファーだが、その多くが死に設定になっているのが残念。せっかく虫と交信できるという尖ったものがあるのだから、そちらだけを全面にだせばよかった。

虫と交信できると、というよりかは虫がジェニファーの感情に呼応する設定は、なんとか最後まで生きていた。この力がなければ物語が進むことも、事件にケリをつけることも難しかっただろう。いっぽうで、虫をこよなく愛するジェニファーが、ラスト付近で手に着いた蛆虫(サルコファゴス)を払っていたのは解せない。犯人に捕まるという緊急事態なのはわかるが、虫をぞんざいにあつかってしまうのはどうなのだろう。

ジェニファー以外にも不思議な設定や人物は多い。

マクレガー教授がなぜチンパンジーを飼っているかは説明されない。昆虫学の博士がどうしてチンパンジーを飼っているのだろう。たぶんチンパンジーをだしたかったんだろう。チンパンジーのインガは不可解な存在ながらも、作中でトップの存在感と演技を見せつけてくれたので良しとしよう。

ついで警部のガイガー。放射線量計測器みたいな名前の刑事は前半にテレビにちょこっと映っていただけで、ラストに突然でてくる。でてきたと思えば犯人の家を偶然にも訪れて、フレーム外で捕まっているのだからよくわからない。彼の生死は不明だが、犯人のフラウがジェニファーを追ってきたところを見ると死んでいるだろう。

最後はフラウの息子。そもそも犯人のフラウ自体がラストまで存在感の薄いキャラで、後半に出てきたときは、誰だっけこいつと思ってしまうくらいだった。さらにその息子というのだから、もはや従兄弟の友人の叔父さんの上司みたいなレベルなのだが、幼いながらも醜い顔をした殺人鬼という強烈なキャラをしている。この段になってそんなキャラを放り込まれるのは、締めのカツどんみたいなものだ。もう少しこのあたりは伏線を張っておいて欲しかった。

本作は矛盾とかちぐはぐさを感じるところも多いのだが、それでも最後までそれなりに楽しんで見てしまう魔力を持っている。

 

考えるな、感じろ

見終わったあとにこうして話をまとめると、たくさんの矛盾点や欠点が見つかってしまうのだが、見ている間はそれほど気にならずに最後まで見てしまう。ダリオ・アルジェントの作品には彼にしか表現できない尖った個性があり、それが人々を引き寄せる魔力なのだと思う。

プロローグで殺人があるのはホラーのお約束だが、そのあとの場面で蛆がたかった頭部がドンと出てきて、それを見る人の横にはチンパンジーがいる。文章に起こすと奇妙なのだがそれをすんなり受けいれてしまう。

話が進みジェニファーが夢遊病で彷徨う場面。ゴブリンの激しい音楽とともに、学内の古い建物を歩くジェニファーの目の前で少女が殺される。学内で殺されたというのは、犯人が学内の者という伏線だったのだろう。そのあとジェニファーは二階以上の高さから落下し、車に轢かれて挙句は車から放り出されるわけだが、彼女にはほとんど傷らしいものはない。そこにどういうわけかインガがやってきて、ジェニファーはマクレガーと出会う。ツッコミどころが満載なのだが、それもダリオ・アルジェントの持ち味なのだと感じてしまう。ダリオ・アルジェントが免罪符になっているのだ。ゴブリンの音楽も、はじめてアルジェント作品を見たときは違和感がすごかったのだが、いまではゴブリンでないと物足りない。

うるせえ!これがダリオ・アルジェントだ!と言わんばかりの奇妙な説得力が、本作でも発揮されている。この説得力は、波長が合うか彼の作品をいくつか見ないと感じられないだろう。

インガがマクレガーの仇を討つ展開は良かったと思う。取り残されたインガがゴミ箱から剃刀を取るシーンは、のちの展開を予測させるし、ラストでなかなか現れないことにじれったさを感じさせ、出てきたときにはある種のカタルシスがあった。インガは当然ながら一言も話さないが、彼が剃刀を拾う場面はマクレガーとも絆を感じさせる。間違いなくこの映画のMVPはインガだろう。冷静に考えると、剃刀を持ったチンパンジーなんて下手な殺人鬼よりも恐ろしくないだろうか。

ジェニファーは良くも悪くもアルジェント的少女だ。正直言って、本作のジェニファー・コネリーはアイドル的な雰囲気で、のちのちに名女優になる風格は感じられない。

 

 

まとめ

ダリオ・アルジェントが送る虫と少女とチンパンジーの物語。まさにダリオ・アルジェント的作品であり、虫が苦手でなければダリオ・アルジェント入門にいいだろう。ダリオ・アルジェントゲシュタルト崩壊しそうである。

映画感想 ウエストワールド

『ウエストワールド』(原題:Westworld)

1973年 88分 アメリ

評価 8点/10点満点中

 

テーマパークの面白さは、いかにその世界を再現できているかにかかっている。アニメの世界を再現したネズミの国や、魔法の国に入り込んだようなUSJのハリーポッターゾーン。またフィクションの世界だけでなく、日光江戸村のようにある時代の「日常」を再現した施設も、「非日常」へと我々を案内してくれる。

『ウエストワールド』は、西部開拓時代のアメリカを再現したテーマパークで、モブを演じるロボットが暴走し観光客を襲うというSFスリラー。友人に誘われてテーマパークにやってきた主人公は、本来はやられ役のロボットに執拗に命を狙われる。

半世紀近く前の映画だが、いま見ても十分に面白い作品で、カウボーイとロボットというアンバランスな組み合わせのガンマンの追跡は、のちの『ターミネーター』を思い起こさせる。

本作は2016年から同名でドラマリメイクが放送されている。2020年にはシーズン3も放映予定だ。古い映画に抵抗がないなら、ぜひ見て欲しい作品だ。

 

 

 

 

 

あらすじ(ネタバレなし)

巨大テーマパークの「デロス」には三つエリアがある。古代ギリシャを再現したエリア、中世ヨーロッパを再現したエリア、そして西部開拓時代を再現した「ウエストワールド」。すべてのエリアにはロボットのキャストがいて、ロボットたちは与えられたシナリオ通りの行動をして、客たちにそれぞれの時代に沿った体験を提供する。一日千ドルという高額な料金だが、「デロス」を訪れる人は絶えない。

ピーターは、以前「デロス」に来たことがある友人のジョンに誘われて「ウエストワールド」を訪れる。人と見分けのつかないロボットに驚くピーターに、手を見ればわかるとジョンは教える。

エストワールドに入ったピーターだが、あまりにも精巧な世界になかなか溶け込めないでいる。半年前に離婚したピーターを元気づけようと彼を誘ったジョンは、ホテルにチェックインしたあと、酒場へ行くことを提案する。

酒場で飲んでいたピーターは、ガンマン型のロボットにからまれる。はじめは躊躇したピーターだったが、ジョンに言われてガンマンと早撃ち勝負をする。ピーターは勝利してガンマンは倒れる。あまりにリアルなロボットに、実は人間なのではと疑うピーターだったが、ここの銃は熱感知器がついていて人を撃てないとジョンが説明する。

「中世」では、ひとりの客が王妃をかけて黒騎士というロボットと戦うことになる。「デロス」の制御室では、ロボットに異常が見つかる。

ピーターはロボットの娼婦と寝たり、先日倒したガンマンに襲われたり、保安官に捕まったあとに脱獄をしたりと、ウエストワールドにのめり込むようになってくる。しかし、荒野でジョンが蛇のロボットに噛まれる。傷は浅くたいして気にしなかった二人だが、人を傷つけないように設計されているはずのロボットの行動に制御室は大慌てとなる。責任者のひとりが即時の閉鎖を提案するが退けられる。

酒場で大暴れしてそのまま寝てしまうジョンとピーター。いっぽう「中世」では、客が決闘の末に黒騎士に殺される。そして目を覚ましたピーターたちの前に、ガンマンが現れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

感想(ネタバレあり)

家でママのミルクでも飲んでな

よく聞く煽り文句だが、元ネタとかあるのだろうか。

西部劇のような舞台と、暴走したロボットというアンバランスな組み合わせが、本作の面白いところだ。多くのフィクションでは表情豊かなカウボーイが、無機質な表情で銃を構えてやってくる。ガンマンロボットは機械的にピーターをつけ狙っているはずなのに、どこか生物的な執着心も見える。無表情を貫くガンマンだが、次第に微笑んでいるようにも見えてくる。機械でありながら生々しく、生々しいが機械的なのは、演じるユル・ブリンナーの技量だろうか。『ターミネーター2』のT-1000は、このガンマンのオマージュに思える。逃げても逃げても角を曲がるたびに目の前にいる。そんな恐ろしさがガンマンにはある。この映画の象徴だ。

ガンマンに相対する主人公のピーターは、ただの一般人である。カウボーイの姿をしているから忘れがちだが、ピーターは恐らくまともに銃を撃った経験もないようなパンピーである。酒場の喧嘩では大暴れしていたが、あれは相手が人を傷つけられないロボットだがらできたわけであり、撃った相手が本当にロボットなのかをかなり心配するような人間だ。そんな人間がユル・ブリンナーの顔をしたロボットに銃口を向け続けらる恐怖は想像を絶するだろう。しかも場所は人間よりロボットのほうが多いテーマパーク。早く家に帰ってママのミルクを飲みたい。

酸を顔にかけるというピンポイント過ぎる攻略法を聞いたピーター。ロボットのふりをして酸をかけたが、ロボットはそれでも彼を追い続ける。酸をかければ聴覚系統が狂ってしまうとのことだったが、熱感知能力もあったらしい。シアーハートアタックよろしくピーターを襲うガンマンだが、その弱点もシアーハートアタックと同じで、中世エリアへと逃げ込んだ彼は、松明の熱を利用してガンマンに勝利した。あんな狭い空間でもきちんと松明を焚いていたデロスの企業努力はかなりのものだろう。すごいススとかつきそう。

 

暴走までが仕様

本作ではロボットの暴走理由とかが語られない。ドラマ版ではそのあたりも掘り下げるのだろうか。ロボットだけが暴走というよりも、機械系統すべてに異常があったようなので、いまの時代ならAIの暴走だとかコンピュータウイルスだとかがあるだろうが、この時代だと主流はパンチカードを使ったコンピュータなので、そういったアイデアが存在しなかったのかもしれない。

本作では題名通り、デロスの内にウエストワールドが物語の中心であるが、ロボットの暴走が決定的となる黒騎士の決闘を挟むので、中世もけっこう登場する。正直言っておまけにするにはもったいないくらい描写が細かい。宴会の様子や衣装など、かなり時代設定に忠実なのではないだろうか。鎧もフルプレートアーマーではなく、兜とチェインメイルなのが良い。

脇役である眼鏡の客も面白い。あきらかに冴えない中年である彼は、カウボーイ姿になると何度も鏡の前で銃を抜いて見せる。某タクシードライバーみたいだ。彼は最終的に街の保安官になるのだが、主人公以外の登場人物にもストーリーを与えているは良い。

本作にも欠点はある。一番感じたのは、ストーリーの比重の悪さだ。ピーターたちがウエストワールドを堪能する描写が長く、ガンマンからも逃亡劇が始まるのはけっこう後半になってからだ。追いかけっこが始まってからの展開はかなり駆け足で物足りなさがある。ここの比重を大きくして、さまざまなロボットを登場させたほうがよかった。88分という短めの映画なので仕方ないのかもしれない。

 

 

まとめ

古さを感じさせない設定とキャラクターをもつ作品。現代にドラマリメイクしても、けっして古臭さを感じないだろう。ウエストワールドに行ってみたが、ユル・ブリンナー顔のロボットはやめてほしい。

映画感想 タイム・アフター・タイム

タイム・アフター・タイム

  (原題:Time After Time)

1979年 112分 アメリ

評価 8点/10点満点中

 

 

2011年、CERN(欧州原子核機構)が、ニュートリノ素粒子が光速を超えたという実験結果を報告した。結局のところ、実験の不備による観測ミスだったわけだが、このニュースはそれこそ光の速度で世界へと広がり、平日昼間のワイドショーでも扱われるほどだった。

相対性理論によると、物体が光速に近づけば近づくほど時間の進みは遅くなり、光速と同じになれば時間が止まるという。ならば光速を超えると過去に戻れるのでは、というのがそこから生まれた推測で、ニュートリノ実験の結果はそれを期待させた。

科学的な時間跳躍、つまり「タイム・マシン」の概念を広めたのは、H・G・ウェルズの『タイム・マシン』だろう。何度も映像化された古典SFの名作で、遥か未来に旅立った科学者が絶望的な未来を見る、ウェルズの思想が反映された作品だ。

本作は、そのウェルズ自身がタイムマシンに乗り、未来へと逃げたジャック・ザ・リッパ―を追うという奇想天外な作品。この一文だけで頭が混乱しそうな内容だが、それが意外とまとまっており、キャラクターも魅力的な一品。四十年前の作品で映像に古さを感じるが、多くの点で完成度の高い作品だ。あらすじに惹かれたならば、ぜひ見て欲しい。

本作は2016年にドラマ化されたが、ABCでは五話までしか放送されなかったらしい。人気がなかったのか。

シンディ・ローパーの同名曲『タイム・アフター・タイム』の元ネタでもある。

 

 

 

 

 

あらすじ(ネタバレなし)

1893年のロンドンでは、切り裂きジャックが世間をにぎわせている。その日も、ジャックは娼婦を殺害して夜の闇に消える。同じ日、作家のH・G・ウェルズは友人たちを招いて、新しい発明の発表会を開催する。遅れてやって来たジョン・スティーブンソン博士を待って、ウェルズは地下室に置いたタイムマシンをお披露目する。社会主義者のウェルズは、百年後の未来には社会主義によるユートピアができていると確信しており、それを確かめに行くために作ったのだと言う。

半信半疑の友人たちにウェルズがタイムマシンの説明をしていると、警察が家を訪ねてくる。切り裂きジャックが現れたので、周辺の家を捜査しているという彼らは、スティーブンソンのカバンから血の付いたグローブを発見する。慌てて警察とウェルズたちが家内を捜索するが、スティーブンソンはタイムマシンで未来へと逃亡したあとだった。

警察や友人たちが帰ったあと、ウェルズがタイムマシンでスティーブンソンを逃がしてしまったことに自責の念を感じていると、タイムマシンが1983年に帰ってくる。タイムマシンには逆転ロックという元の時代へと帰る機能があり、それの解除キーはウェルズが持っていた。ウェルズはありったけの現金や貴金属を集めると、スティーブンソンが逃亡した1979年へと向かう。

1979年についたタイムマシンはどこかの博物館の中にあり、ウェルズは周囲を確かめ、予想していた時間よりも八時間後の時間に着いたことに気が付く。博物館ではウェルズ自身の特別展が開かれており、彼の家具や持ち物が展示されている。外に出たウェルズは、ここがロンドンではなくサンフランシスコであり、八時間は二点間の時差だと気が付く。

とりあえず換金に銀行へと向かうウェルズだが、相場の関係で25ドルしか手に入らず、貴金属を売ろうにもアメリカのIDカードがないため売れない。教会すら追い出された彼は野宿で夜を過ごす。翌日、彼はIDカードのいらない質屋で貴金属を売り当面の金を作ると、ロンドン銀行へと向かう。そこで為替担当のエイミーに、自分と同じように古いお金を換金しに来た人間はいないか尋ねる。エイミーは、昨夜に男性がひとりやって来て、換金してホテルを紹介したと答える。ウェルズに一目惚れしたエイミーは、彼に街の案内を申し出る。ウェルズも彼女に惹かれていたので承諾し、タクシーに乗ってスティーブンソンのいるホテルに向かう。

ホテルについたウェルズは、スティーブンソンの部屋を訪れ、過去に戻って罪を償えと迫る。しかしスティーブンソンは、未来がウェルズの期待するようなユートピアではなく、より暴力的になり自分にピッタリだと、ウェルズの要求を拒絶する。さらに、ウェルズがもつ逆転ロックの制御キーを渡すよう脅す。取っ組み合いになった二人だが、ホテルのメイドが部屋に入ってきたことでスティーブンソンが逃げ出す。ウェルズに追いかけられたスティーブンソンは車の前に飛び出し轢かれ病院へと運ばれる。追って病院に着いたウェルズは、スティーブンソンが死んだことを聞かされる。しかし、遺体の確認は拒否される。

果たしてスティーブンソンは本当に死んだのか、そして時を超えて惹かれあうウェルズとエイミーのふたりの関係は。

 

 

 

 

 

 

 

 

感想(ネタバレあり)

サンフランシスコのロンドンリッパ―

風変わりなストーリーに目が行きがちだが、本作の一番評価したい点は、主人公ウェルズのキャラクターだろう。作家にして発明家、ヴィクトリア期の紳士然としていながらも、社会主義を信奉して自由恋愛を推奨する。まさしくこの時代の知識人らしいが、彼の言動には可愛らしさがある。理想は高いのだが、エイミーにおされて彼女と寝たり、非暴力を掲げながら危機に瀕せば銃を買いに走ったりと、けっして潔癖な人物ではなく人間味がある。

実際のウェルズも社会主義に傾倒していたときがあり、何度も結婚をしている。世界大戦を通して国際的な国家連合の必要性を説き、人権について交流のあったチャーチル首相に提言するなど、平和主義者でもあったようだ。現実のウェルズは崇高過ぎてとっつきにくさを感じるが、映画では基本的には現実のキャラクターを残しつつも、親しみがもてるように肉付けされている。

脇を固めるキャラクターも個性が豊かだ。ヒロインのエイミーはウーマンリブベトナム戦争反戦運動に参加した経歴があり、銀行に就職してからも男性に負けないように仕事を熱心にして望んだ地位を獲得するなど、公開当時のフェミニスト女性像を詰め込んだようなキャラ。いまの時代にはかえって珍しいのではないだろうか。最後はウェルズについて19世紀末のロンドンへと向かうが、その行動力で女性史の改変を起こしそうですらある。ちなみに、実際のウェルズも1895年からエイミーという女性と結婚している。エイミーは1927年に亡くなり、ウェルズの最後の妻となっている。この作品が細かなところまで練られているのがわかる。

最後は切り裂きジャックことスティーブンソン。実際の切り裂きジャック1888年に犯行を行っていたので、本作の切り裂きジャックはさらに五年のあいだ凶行を続けていたことになる。いまもって犯人は不明だが、有力者とされている人物のなかには外科医も何人かおり、切り裂きジャックの正体が外科医として描かれることも多いようだ。被害女性には臓器を摘出されている人がいることがこの説を支えている。

チェスでウェルズに負けたことがないなど、スティーブンソンは知能が高く、飛ばされた未来にあっさり順応する柔軟さも持ち合わせている。さらには、兵器の発達で19世紀よりも混沌とした現代を指して、自分はこの世界ではアマチュアだと言う残忍さを持っている。完全にダークサイドに堕ちたスネイプ先生みたいな見た目と性格をしており、着実にウェルズたちを追いつめる様子は、陰惨な殺人鬼切り裂きジャックらしい。ラストはやっちまった感があるが、脚本の都合上仕方ないことにしよう。

この三人以外はほとんど端役扱いだが、十分なほどいいキャラクターをしている。

 

未来に行くならインフレには気を付けろ

タイムトラベルものである本作には、タイムトラベルに関するちょっとしたネタも登場する。

まずはお金のインフレだ。ウェルズはそれなりに裕福な人間だが、家中からかき集めたお金を未来のドルに両替すると25ドルしか残らなかった。基本的には経済成長をすればお金の価値は下がるインフレに状態になる。とくに20世紀は世界的にも革命的な経済成長があったときだ。25ドルでは満足にホテルにも泊まることもできずウェルズは途方に暮れる。貴金属の価値は上がっている場合が多いので、みなさんも未来に行くなら貴金属を持って行こう。

ストーリーに関しては、疑問に思うところもあるが、突飛な設定に引っかかりを感じないくらいに面白い。ウェルズとエイミーが恋に落ちるのも、現代の男に飽き飽きしているエイミーが、見た目は古風なのに先進的な考えを持つウェルズに恋に陥るのも無理はない。ウェルズも自己を持つ未来の女性に惹かれたのだろう。

刑事が与太話をしたウェルズを拘束するまでの流れも映画的で滑らか。そのためにエイミーの同僚は殺される羽目になるが。エイミーを助けるためにウェルズが車の運転を試みるのも、ベタだが良い展開だ。未来に行ったらエイミーの死亡記事が新聞に載っているのもサスペンス感を煽る。

唯一残るモヤモヤが、スティーブンソンの死の偽装だ。ウェルズに彼の死を語った看護師は金でも掴まされていたのだろうか。おそらく、大方そうだろうが、ちょろっと言ってくれればよかった。

 

まとめ

ウェルズ、タイムマシン、切り裂きジャック、ロマンスという様々な要素を詰めながらも、一本の映画としてきっちりとまとまっている作品。古いSFの短編のような奇想天外さは、昨今の映画に見られないもので、いまならかえって新鮮に楽しめるだろう。ちなみに、本作には同年出版の原作があり、原作者が監督と友人のため、アイデアを交換しながら映画と小説を作ったらしい。残念ながら、邦訳はおそらくない。