自分という病

主に映画の感想 たまに変なことも書きます。あらすじは長いです。

映画感想 フィフス・ウェイブ

『フィフス・ウェイブ』(原題:The 5th Wave)

 2016年 112分 アメリ

 評価 2点/10点満点中

 

 

幼年期の終わり』に『インデペンデンス・デイ』と、宇宙人が地球にやってくるSF作品は枚挙に暇がないが、一番多いのは侵略ものだろう。本作『フィフス・ウェイブ』も宇宙人の侵略を描いたSF映画で、原作はアメリカのヤングアダルト小説。

突如現れた宇宙船によって引き起こされる「ウェーブ」と呼ばれる大災害と、それに立ち向かう少女が主人公だ。

ティーン向けの小説が原作だからというのもあるが、話の展開がご都合主義で既視感があるオリジナリティがないもので、大きな見せ場もなく終わる。続編を見越しての終わりだろうが、次回作の動きはほとんど見られない。一応、本作がヒットを出せば次回作が作られるらしいが。

 

 

 

あらすじ(ネタバレなし)

高校生のキャシーはアサルトライフルを抱えて、荒廃したガソリンスタンドに入る。中で残っているものを物色していたキャシーが物音を聞いて奥に進むと、腹部を押さえて倒れている男を見つける。互いに銃を向ける二人だが、男のほうが折れて銃を下ろし、腹を怪我している主張する。キャシーはジャケットの下に隠れた手を出すように要求する。男が手を出そうとすると、服の隙間から光るものが見え、キャシーは反射的に銃を撃ってしまう。十字架が、死んだ男の手の上で光る。

キャシーは同級生のベンに恋心を抱くも彼とうまく話すことができず、部活のサッカーに打ち込む平凡な日々を過ごしている。だが、地球上に突如として巨大な飛行物体が襲来。「アザーズ」と名付けられた彼らは沈黙を守り、人々はパニックに陥る。

疎開などで学校に通う生徒もまばらになり始めたとき、「アザーズ」は第一の「ウェイブ」として電子パルス攻撃を行い、人類の電子機器はすべて使えなくなる。本格的に混乱する人類に追い打ちをかけるように、第二の「ウェイブ」として大地震が発生。沿岸部や島は津波に沈む。さらに第三の「ウェイブ」として、鳥インフルエンザの変異体がばら撒かれ、人類の多くが死滅し、キャシーも母を失う。

父とのサムとともに家を出たキャシーは、生き残りの人々が作った森の中のキャンプにたどり着く。そこでいくらか落ち着いた時間を過ごしたキャシーたちだが、突如としてアメリカ陸軍が現れて、彼らを保護すると宣言する。

安堵と喜びに包まれるキャンプだが、なぜか子どもと大人に分けられて、子どもだけが先に軍の基地へと運ばれることになる。父は三人で一緒にいたいと申し出たが、軍の指揮をとるヴォ—シュ大佐に説得され、キャシーたちだけをバスに乗せる。くまのぬいぐるみを忘れたとサムが言うので、ぬいぐるみを取りにキャシーは一度バスを降りる。その間にバスは発車してしまい、キャシーはキャンプに取り残される。

キャンプの食堂では、集められた大人たちに向けて説明会が行われる。「アザーズ」たちは第四の「ウェイブ」として、人間に寄生し、人々に紛れているのだという。アザーズかどうかの検査は、子どもは簡単に行えるが、大人は複雑で時間がかかり、そのために子どもたちと分けたのだと説明される。食堂に入ろうとしたキャシーだが、周囲の不穏な空気を察した父は、手ぶりで近づかないように指示する。子どもたちと引き離されたことに抗議がはいったことを皮切りに、住民と軍が銃を向け合う。ついには発砲にまでいたり、キャシーは急いで身を隠す。銃声が鳴りやむと軍人たちが食堂から出てきて車に乗り去っていく。食堂に入ったキャシーは、人々に重なって死ぬ父を見つけ涙する。死んだ軍人からアサルトライフルを取ったキャシーは、サムと再会するために軍の基地を目指す。その途中、彼女はエヴァンという不思議な青年に出会う。生き残っていたベンは、軍の施設で「アザーズ」と戦うための兵士になる訓練を受ける。

果たしてキャシーはサムを見つけられるのか? そしてまだ見ぬ「フィフス・ウェイブ」とは?

 

 

 

 

 

 

 

感想(ネタバレあり)

急がば回り過ぎる宇宙人たち

本作の特徴は題名の通り、宇宙人たちの攻撃である「ウェイブ」、、、ではなく、主人公のキャシーと実はアザーズであるエヴァンの恋愛模様、、、でもなく、すべての要素が中途半端だ。シリーズ物にするのが前提だったからか、もとがヤングアダルト小説だからなのか。ともかくあらゆるところが中途半端なのだ。

本作の特徴である「ウェイブ」だが、1から3まではウェイブにふさわしい世界規模の攻撃なくせに、4つ目からは人類に寄生するという地味なもの。そのうえタイトルにもなっている5つ目のウェイブにいたっては、捕らえた子どもたちを騙して兵士とし、人間の生き残りを攻撃させるという。

回りくどいよ! 

とても回りくどい。アザーズに寄生されているという人々との戦闘中、この違和感にベンの戦友のリンガーが気がつく。

「電磁パルスを使う敵がガキに負ける?」

視聴者がずっと気になっていたことにようやくツッコミがはいる。

そもそもの話、ベンが見せられた人間に寄生したアザーズも、まるでPS2のCGのようなクオリティだから、視聴者にはこれが本当にアザーズなのかと疑問がでる。

リンガーが言うように、天変地異を起こすような奴らが、わざわざ人間に寄生するのかという点が気になる。

そして、リンガーのセリフから、ベンが導いた「フィフス・ウェイブ」の答えは、

アザーズ」が子どもたちを捕らえて兵士とし、残った人間たちを殲滅させる

というもの。

第4のウェイブより回りくどいじゃねーか! 

なんというかもう残念である。長い宇宙を旅してきて、天変地異を引き起こすことができるテクノロジーをもつ者たちの取る行動としては、あきらかに非効率だし現実味がない。いくらヤングアダルト小説だからといって、SFとしてはあまりにもお粗末だ。

さらに、アザーズたちに徴兵された子どもたちは、弟のサムをはじめとして、10歳にも満たない子どもが実践投入されるのだが、あまりにも幼すぎる。アザーズの侵略者としての浅さが感じられる。

そしてこういうツッコミどころが、ほかの部分にも散見される。

 

愛は偉大だよね

本作のもう一つの要素。それはキャシーが出会った謎の青年であるエヴァン。実はアザーズは昔から着々と侵略の準備を進めていた。アザーズは人間の体に入り込み、本体がやってきたときに地上から侵略を開始する。

エヴァンもそのうちの一人で、人間たちに攻撃を加えていたのだが、あることがきっかけで人間の味方になることを決める。

そのきっかけがキャシーに対する一目惚れだ。

なんでやねん。

キャシーに一目惚れしたことで、アザーズとしての本能を人間性が上回ったらしい。ティーン向けなのだから恋愛要素を挟むのは構わないのだが、一目惚れはあまりにも雑過ぎる。ここにドラマ性がないから、まったく感情移入ができない。異種族への恋なのだから、より丁寧な動機が必要だろう。ベンのほうもリンガーとのあれこれが描かれるが、こちらはティーン向けの物語では飽きるほど既視感を覚えるもの。面白くはない。

SF要素がダメなら恋愛要素で挽回、というわけにもいかず、SF映画としても恋愛映画としても褒められた出来ではない。

 

まとめ

どこかで見たことがある展開に、ご都合主義とお粗末な侵略者をミックスした作品。製作側はシリーズ化を予定していたのだろうが、この内容なら望み薄だろう。ちなみに、製作にはサム・ライミ版『スパイダーマン』でお馴染みにトビー・マグワイアが名を連ねている。彼が映画化権を共同で買ったらしいが、良い俳優が良い映画を作れるわけではないということだ。ベン・アフレックマット・デイモンってすげえな。

 

映画感想 ハッピー・デス・デイ

『ハッピー・デス・デイ』

  (原題:Happy Death Day)

2017年 96分 アメリ

 評価 9点/10点満点中

 

 

ホラー映画にヒロインはつきものだ。殺人鬼特攻と驚異的な生存能力、異能生存体かと思うほどの強運を備えた彼女たちが、超自然的な脅威や怪物と化した殺人鬼たちに打ち勝つ姿に、我々はカタルシスや興奮を覚える。

まあ、そんなことはどうでもよくて、ホラー映画に新たなヒロインが登場したということである。『ハッピー・デス・デイ』の主人公であるツリーは、間違いなくここ十年の中で最高のホラー映画ヒロインだと言える。ホラーヒロインは優等生キャラが多いのだが、ツリーは言うなれば「ビッチ系ヒロイン」である。しかしその痛快な性格が、ホラーコメディサスペンスという渋滞したジャンルを持つ本作と非常にかみ合っている。

本作はホラーが苦手な人にも勧められる作品だ。ぜひ機会があれば視聴してほしい。

 

 

 

 

あらすじ(ネタバレなし)

9月18日の月曜日、大学生のツリーは頭痛とともに目覚める。昨夜さんざん飲み明かした彼女が目覚めたのは、同じ大学に通うカーターという学生の部屋。ツリーの電話に父からの着信がはいる。父は今日が娘の誕生日だから食事でもしようと電話をかけたのだが、ツリーはそれを無視して、カーターから頭痛薬をもらい部屋を出て自分の寮に向かう。

寮に戻った彼女は、朝帰りを寮のリーダー的存在のダニエルに咎められるが適当にいなす。部屋に戻った彼女はルームメイトのロリから誕生日祝いのカップケーキをもらうが、ダイエット中だからと言ってケーキをゴミ箱に投げ捨てて授業へと向かう。

大学についた彼女は、既婚の大学教授であるグレゴリーとの逢瀬を楽しむが、彼の妻が来たことによって中断される。昼には寮のミーティングを行っているときに、彼女の忘れ物を届けにきたカーターを冷たくあしらう。

その夜、大学で開かれるパーティーに向かうツリーは、構内のトンネルに置かれたオルゴールを見つける。不気味に思いながらも近づいた彼女の前に、赤ん坊のマスコットキャラのお面をつけた人物が現れ、ツリーは殺される。

目を覚ました彼女は、また9月18日の月曜日にカーターの部屋で起きる。この状況を訝しんが彼女だったが、見たことがある光景が繰り返されるデジャブに、ますます疑念は強くなる。同じ一日を過ごした彼女だったが、パーティーにはいかずに学友のニックのもとへ身を寄せる。しかしそこにも殺人鬼は現れ、彼女は殺害される。

彼女は三度、9月18日にカーターの部屋で目を覚ます。彼女は自分がタイムループに陥陥っていることに気がつく。過ごし方を変え、自室に一日籠ることにした彼女だったが、またしても殺人鬼は現れて彼女を殺す。

四度目の9月18日を迎えたツリーは、カーターに自分が陥っている状況を話す。こうして、生きて19日の火曜日を迎えるため、ツリーは死が襲い掛かる誕生日の戦いに臨む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あらすじ(ネタバレあり)

時をかけるビッチ

本作の特徴はなんといっても、主人公のツリーのキャラクターだ。本編が始まって十分余りで彼女のクズっぷりが端的に描かれている。まるでミュージカル映画のように大学構内を歩く彼女は、周囲のひんしゅくを買うような行動を繰り返す。

この開始十分が素晴らしく、彼女のキャラクターを描くだけでなく、のちのちに至る彼女の変化や、時間がループに入っていることを証明するのにもつかわれている。テンポが良いのも評価できるポイントで、ループに入るまでが早く話がダレることがない。

登場人物からも視聴者からもひんしゅくを買うツリーだが、ループを繰り返すうちに自分の行いを改めていく。あるループに至っては、別の人格でも現れたのではないかと思うほど好人物に変わる。しかしながら、きちんと犯人探しも続けている。そういう強かさやタフさも彼女の魅力であり、ある意味、「ビッチ」だからこそなのかもしれない。ループものあるあるで、彼女もループに苛まれて弱音を吐くこともあるのだが、立ち直りが早い。この点なんかはアキバの鳳凰院にも見習ってもらいたいものだ。おまけに彼女はループの条件が死ぬことなのだから。

DIEジェストが続くなども、製作がテンポを意識していることがわかる。その代わり、犯人探しはしらみつぶしで、推理要素はほとんどない。それでも最後にちょっとしたどんでん返しがあるので、サスペンスとしてもそこそこ面白い。

 

ループの中では、あなたの悲鳴は誰にも聞こえない

本作がさまざまな映画の影響のもとにあるのは確かだが、個人的にはとくに『スクリーム』を想起した。性格こそ正反対だがタフさを持った主人公、学校を中心として起きる殺人事件、殺人鬼の戦闘能力は低めなど。『スクリーム』も名作なので、ぜひとも視聴してもらいたい。

本作の弱さをあげるなら、『スクリーム』とは違い、脇を固めるキャラクターたちが弱かったことだろうか。真面目君なカーター、よくいる不倫おやじのグレゴリー、ありきたりな理由で毒入りケーキを作るロリ。

ただ、可愛げのないビッチであるダニエルは良かった。リーダーを気どり、他人の生活まで口出しをする。本人は世話やきくらいのつもりなのだろうが、「くそったれ」というほうのビッチだ。ツリーとは好対照になっている。それでも嫌味を感じることがないのは、やはりツリーのキャラクターの偉大さというべきか。

個人的には、脇役の個性くらいしかマイナス点は見つかなかったが、人によってはサスペンス要素の弱さも気になるだろう。

 

 

まとめ

普通のホラーなら序盤の生贄になるビッチが主人公の本作。次回作である『ハッピー・デス・デイ 2U』では、ツリーのキャラにさらに磨きがかかっており、ダブルファックサインをしながら落下死するシーンは必見。ぜひ、両方を連続で視聴してもらいたい。

 

 

おまけ

ラインスタンプを作ってみました。よければ見てやってください。

line.me

映画感想 ドラキュリアン

『ドラキュリアン』

  (原題:Monster Squad)

82分 1987年 アメリ

評価 6点/10点満点中

 

ドラキュラを吸血鬼という意味だと思ってる人はけっこう多いよね。

ドラキュラ伯爵、フランケンシュタインの怪物、ミイラ男、ギルマン(魚人)に狼男。どれもが古き良きホラー映画の悪役たちで、現在においてはチープさを感じるキャラクターたちでもある。そんなチープなキャラたちをチープに描いたのが本作『ドラキュリアン』で、タイトルが示唆する通りホラーコメディだ。

上記の怪物たちは、ユニバーサルピクチャーズの古い映画に登場した怪物たちで、ユニバーサルモンスターズと呼ばれる。それらと対峙する子どもたちは、どこか『スタンド・バイ・ミー』を彷彿とさせる、、、気もしなくはない。

八十年代ホラーコメディとして一定のクオリティはあるのだが、物語が進むにつれてストーリーが適当になっていき、画面から集中が外れてしまう。もう少し、各怪物の特徴を活かして欲しかった。序盤はそれなりに面白く、郷愁を誘う画もあるので、そういうのに浸りたい方は見てもいいと思う。

 

 

 

 

あらすじ(ネタバレなし)

1887年のトランシルヴァニアヴァン・ヘルシング教授は、ドラキュラ伯爵率いる怪物たちと戦っていた。ヘルシング教授は、処女に呪文を唱えることで発動する秘石を用いて、ドラキュラ伯爵を煉獄に送ろうとしたが失敗し、自身が煉獄への穴へと吸い込まれてしまう。

百年後の1987年のアメリカ。12歳のショーンは「怪物クラブ」を作り、友人のパトリック、ホレス、ユージンと怪物について語り合う日常を過ごしている。ある日、ホレスの友人で中学生の不良であるルディをショーンたちに紹介する。クラブのツリーハウスに来たルディは、そこから隣の家の少女の着替えが覗けることに気がつくと、クラブへ加入する。

同じ頃、秘石を求めるドラキュラ伯爵は、フランケンシュタインの怪物が入った棺桶とともに乗り込んだ飛行機から落下。コウモリに変身して地上の沼地に降り立ったドラキュラ伯爵はアメリカで活動を始める。

「怪物クラブ」から帰ってきたショーンは、母からヴァン・ヘルシング教授の日記をもらうが、ドイツ語で書かれており読むことができない。その夜、映画を見に行こうとしたショーンだが、両親が夫婦カウンセリングのために妹のフィービーの子守をすることになる。しかし、警察官である父のデルは急な出動のために家を出る。

デルは博物館に呼び出され、ミイラがひとりでになくなったと聞かされる。手掛かりはなく、デルはうんざりして家に戻る。デルは妻とはげしい喧嘩をして、それをショーンが目撃する。両親の喧嘩を悲しむショーンは、冷蔵庫に貼ってあったメモから、ドラキュラが近くに来ていることを知る。

警察署では狼男を名乗る男が、自分を牢屋へと入れてくれと叫び暴れている。男は警察官の銃を奪ったために撃たれる。死亡したとみなされ救急車で運ばれる男だったが、その体は狼男に変身してレスキュー隊員を襲う。怪物たちを集めたドラキュラ伯爵は、雷を用いてフランケンシュタインの怪物を復活させる。ショーンたちがヘルシングの日記を持つことを突き止めていたドラキュラ伯爵は、フランケンシュタインの怪物に日記を手に入れるように命令する。

ヘルシングの日記の解読のため、ショーンたちは近所に住む「恐怖のドイツ人」の家を訪ねる。幽霊だと噂される「恐怖のドイツ人」だったが、ショーンたちを温かくもてなして、日記の訳も喜んで引き受けてくれる。日記から、明日が百年に一度の善と悪の力が均衡になる日であり、その日に秘石と処女の唱える呪文を使うことでドラキュラを煉獄へと封印できることを知る。ショーンたちはドラキュラと戦うことを決める。

いっぽう、ショーンの妹フィービーのもとに、フランケンシュタインの怪物が現れる。

 

 

 

 

 

 

 

感想(ネタバレあり)

ドラキュラ伯爵、運転をする

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丘に立つドラキュラ伯爵

本作のドラキュラ伯爵は、トワイライトな青年でもなければインタビューされそうなハンサムでもない。蒼白の顔に黒髪のオールバックをして襟の立ったマントを着ている。かのベラ・ルゴシのドラキュラ伯爵を彷彿とさせる正統派だ。

しかし車を運転する。

どこで手に入れたのか、改造した黒光りの高級車を自身で乗り回し、丘の上から街の夜景を見下ろす。そのまま『ラ・ラ・ランド』でも始まりそうな雰囲気だ。こういうところは真面目風ギャグとしてクスっとできる。

けれども、特色があるといえるのはこれくらいで、子どもたちパートはこれといった特徴もなく、戦闘パートもわりと退屈。また、キャラが多いためかひとりひとりの掘り下げがなく、そのわりにはなにかを匂わすような描写がある。不良のルディがいじめられっ子のホレスと友人である理由とか、なぜ老人が「恐怖のドイツ人」と呼ばれるようになったのかなど。こういったものが散りばめられるおかげで前半は楽しめるのだが、後半は拍子抜けに感じる。ショーンの両親の関係も、ドラマ無しに解決してしまった。

やはりこの作品の魅力はドラキュラ伯爵様だ。改造車を乗り回すだけでなく、ダイナマイトをぶん投げる。

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ダイナマイトを持つドラキュラ伯爵

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ツリーハウスにダイナマイトを投げるドラキュラ伯爵

大人げないドラキュラ伯爵は、ショーンたちの基地になっているツリーハウスにダイナマイトを投げ込む。当然ツリーハウスは爆発四散。さらに駆け付けたショーンの父であるデルの相棒を爆殺する。吸血鬼のくせにダイナマイトを使う。かなり現代に順応されているようである。
不思議なことに、作中にはダイナマイトが何度か登場する。この作品の人々はダイナマイトを常備しているらしい。ならドラキュラ伯爵がダイナマイトを持っているのも納得である。

 

二千年待った結果

映画の本編とはまったく関係のない話だが、作中の描写を見て、モンスターとしてのミイラ男の強みを考えてしまった。本作のミイラ男は、1932年に公開されたユニバーサルピクチャーズの『ミイラ再生』のミイラ男がモチーフになっていると思われる。博物館に展示されていたミイラが動き出したという設定だ。

古い歴史を持つミイラ男だが、中身は乾燥した死体である。作中でも「二千年前に死んだ男の死体」と言われている。ミイラの強度について詳しくはないが、おそらく脆いと思われる。実際に、ミイラは手足を硬直させてヨタヨタと歩くように描写される。こうなるとまったく脅威であるとは思えない。動きは緩慢であり、強度もない。かりに不死身だったとしても、なんとかなりそうである。

作中でのミイラ男の扱いもひどく、狼男が逃げ出した場面でカメラに見切れたり、なぜかユージンの家のクローゼットに入っていて、なんの危害も加えることなく出ていったり。あげくの果てには包帯がほどけて成仏ときている。普通に銃殺されたギルマンも大概だが、ミイラ男の扱いは一段とひどい。二千年も生きてきた(?)のに、これが最後なのはあんまりだ。生前はさぞ立派な地位にいただろうに。

こういった怪物の雑な扱いも、作品から魅力を奪ってしまっている。

 

 

まとめ

ただただダイナマイトを投げるドラキュラ伯爵が面白い作品。もう少し怪物の特性を活かしてほしかった。五歳児を処女扱いしたのは結構好き。

 

 

映画感想 クローズド・バル

『クローズド・バル』(原題:El Bar)

2017年 102分 スペイン

評価 5点/10点満点中

 

 

近年、バルという形態の店が流行を見せている。スペイン語のバルは英語のバー(Bar)から来ているのだが、バーとは異なり喫茶店や食堂というほうが近い。日本ではお酒と料理が楽しめる洋風居酒屋といった感じか。お洒落な響きのバルだが、スペインでは庶民的なありふれた店らしい。

本作は、そんなバルから「出られなくなってしまった」人々を描いた作品。以前紹介した『ディヴァイド』と似た密室心理サスペンスだが、こちらはコメディ要素が強い。わかりやすい個性を持つキャラたちにコメディらしい笑いどころもあるが、全体としては既視感の強い作品で、オチに関しても逃げの感じが強い。コメディとはいえゲラゲラ笑えるわけでもない。ただ、キャラ造形は細かいところがあるのは評価点か。スペイン映画に興味があるという人はどうぞ。あまりスペインらしい映画でもないが。

 

 

 

 

 

あらすじ(ネタバレなし)

ウェブで知り合った男と落ち合うためにホテルを探しているエレナ。しかし、友人との電話中にスマホの充電が切れたために、近くにあったバルに充電器を借りるために入る。バルで注文をしたあと、充電器がないかと尋ねると、店員のサトゥルが客の忘れものだと言う大量の充電器の束を出す。バルには食事を取りに来たサラリーマン、置いてあるスロットマシーンを撃ちに来る中年女、常連の男、トイレを借りに来た男などがおり、さらにはバルの女主人の顔なじみであるホームレスまでがはいってくる。

客のひとりが店をでたとき、銃声が響き渡り、いま店をでた客が道に倒れる。悲鳴があがり、外にいた人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。店内の面々も、ドアにくっついて外の様子を見て、倒れた客がまだかすかに動いていることを確認する。店にいた清掃員の男が助けにでようと外に出ると、その男も撃たれて倒れる。パニックにおちいる店内。街からは不自然なほどに人の気配が消え、バルの中にいた人々は、狙撃を恐れて外にでられないようになる。テレビをつけてもこの事件のことはいっさい報じられておらず、一同はさまざまな憶測を重ねる。パリで起こったテロを思い出し、お互いをテロリストではないかとする疑い始める。エレナは疑心暗鬼になるほかの人々をいさめるが、緊張はたかまっていく。

そんなとき、トイレから物音がして、サトゥルはトイレを借りに来た男がいたことを思い出す。トイレのドアを開くと、男がうずくまっていた。男をトイレから出そうとしたとき、店の前にトラックが止まり、そこからガスマスクをつけた特殊部隊のような男たちが現れて、店のまえにタイヤを積んで火を点ける。するとテレビでは、マドリードの一角で原因不明の火事が起きて、政府がいったいを封鎖したというニュースが流れる。政府による隠ぺいを確信して憤る一同。彼らの背後にはトイレに倒れていた男が立っていた。しかし、男の体は異常に膨れ、目は白濁し、そのまま倒れて息を引き取る。男のスマホにはいった写真から、驚愕の事実が判明し、バルはさらに恐ろしい状況へと陥っていく。

 

 

 

 

 

 

感想(ネタバレあり)

おまえのようなホームレスがいるか

等身大なキャラクターであるエレナに比べると、他のキャラクターたちはキャラがたっている。ただ、そのキャラクターもどこかで見たことあるものであり、ストーリーもよくある密室サスペンスの域をでない。笑いどころは、と聞かれると難しい。全体としてあわてふためく登場人物たちがコメディ要素で、彼らが四苦八苦するさまを笑うのが正しいのだろうが、このあたりはヨーロッパの感性で、日本人にはあまりなじまないかもしれない。

とくべつ面白いキャラクターとは、イスラエルとヒゲ青年のナチョだろうか。

イスラエルは聖書?をよく引用する妄想執のホームレス。前半は人畜無害のキャラクターだが、後半で感染症の血清を自分だけが打ってからは、その狂気を徐々に見せる。最初は、妄想を語り他人をからかうけれども、どこか愛嬌を感じさせた。しかし、血清と銃を手に入れてからは、バルの支配者として振る舞うようになり、社会や周囲の人々に対する不満をぶつけるようになる。その口調は支離滅裂に聞こえるが、内容自体は整理されており、それまでの白痴な言動は演じられていたものだというのがわかる。

ラストはエレナとナチョを下水道で追いかけまわす完全な悪役となる。状況にアポカリプティックなものを感じているのか、言動はさらに狂いだしている。狂ってはいるが支離滅裂な精神性を持ってはいないのだろう。ただ、やはりキャラクターとしてはそれほど目新しいものがない。強いて言うなら、やたらムキムキなところだろうか。ホームレスとは思えないほどの肉体をしている。これもある種の笑いどころか。

ナチョはもうひとりの主人公といった立ち位置で、髭を生やしてノーパソをカタカタするいまどきの若者である。よく言えば人間味のある、悪く言えば情けない男として活躍する。基本的には他のキャラクター、とくにエレナの後ろに隠れていて、つねに状況から一歩引いている。銃を手に入れると調子に乗るし、ホームレスであるイスラエルの命を軽く見ている節もある。下水道に下りてイスラエルから銃を奪ってからは、イスラエル同様支配的になろうとするがうまくいかず、引き金を引こうと思っても引けない。絶望的な状況において、とても感情移入できる小物っぷりを発揮してくれる。そんな彼も最後には、自らの身を犠牲にしてエレナを救う。本作は彼の成長譚なのかもしれない。

彼の言動を注意してみると、エレナの体をべたべた触れていることがわかる。とんだセクハラ野郎である。エレナも気づいているようだが、状況が状況だけに言い出せないといった感じ。この細かさは好き。

 

はい、ジョージ

エレナたちがバルに閉じ込められた理由は、はっきりとは語られない。だが、作中の情報やオープニングで流れるウイルスや細菌の映像から、感染症であることは間違いないだろう。トイレに入っていた男は、アフリカに派兵されたときに新種の感染症に罹り、本国に帰ってきてから発病、なんとか血清を手に入れたものの、感染症によるパニックを恐れた政府により尾行される。政府は男が密室であるバルに入ったところで、浄化作戦を発動した、ということであろうか。

まあ、穴だらけである。男がそれまで辿ってきた道はいいのか? どうしてそんな場所から帰ってきた男を隔離していないのか? もっと早く手を打つべきでは? 気になる点を挙げれば枚挙に暇がないだろう。最初の狙撃で街から人がいなくなるのも早すぎる。これだと、どっきりでしたというオチのほうがいいじゃないだろうか。血清が店にあることを知っていたなら、防護を施して内部にはいり、血清を回収してエレナたちを隔離し医療施設に送ったほうがいいだろう。建物ごと燃やすのはいかがなものか。あまりにも、無理やりに作られ過ぎた場という感が強く、そうであるなら『ディヴァイド』くらい謎が多いほうが想像の余地があり面白かっただろう。

こうみると『REC』に似ている。あれもスペイン映画だった。

やはり既視感が強く、特筆して面白い箇所もないストーリー。うだうだした場面が少なく、破綻しているというほどメチャクチャでもないが。

ラストでエレナが排水口から顔を出す場面で、旧『IT』のペニーワイズを思い出した。実際、排水口から汚物まみれの女性がでてくると怖い。

 

 

まとめ

特筆するべき点もないが、とりたててつまらないわけもない作品。ある意味では一番記憶に残らないタイプかもしれない。まあ、なら見てもいいかも。

映画感想 プリデスティネーション

プリデスティネーション

  (原題:Predestination)

2014年 97分 オーストラリア

評価 9.5点/10点満点中

 

タイムパラドックスはSFの大きなテーマのひとつで、現在のタイムトラベルSFではこのパラドックスを扱ったものが中心になっている。有名なのは「親殺しのパラドックス」だ。タイムトラベルして自分の親を殺したら、自分は生まれないのだから親が殺されるという事象も発生しない。だがそうすると自分は生まれて、親は殺される。しかし殺されると自分は生まれず親は殺されない・・・・・・。このように無限の循環の陥ってしまう。パラレルワールドや過去不可変など、さまざまな回答が試みられてはいるものの、そもそもタイムトラベルができないのだから確かめようがない。

本作もタイムパラドックスを扱った作品で、原作はSFの大家ロバート・A・ハインラインの書いた短編「輪廻の蛇」(原題:All You Zombies)。早川書房から出ている同名の短編集に収められている本作は、日本語では三十ページ弱しかない。ハインラインも一日で書き上げたという。けれども、タイムパラドックスの名作といえば、この作品を上げる人も少なくない名作である。『プリデスティネーション』は、「輪廻の蛇」をかなり忠実に、しかも三十ページを一時間半の映画に仕立て上げた傑作だ。その難解さゆえに理解が難しいので、今回は解説を中心に書いていく。映画の良さが損なわれるので、あらすじはかなり簡潔に書く。

 

 

 

 

あらすじ(ネタバレなし)

航時局の任務は、時間を遡り重大な事件を阻止すること。エージェントの男は、1970年のニューヨークの地下鉄で、「不完全な爆弾魔(フィズル・ボマー)」の爆弾を解体しようとする。しかし妨害にあい解体は失敗し、エージェントは顔に大やけどを負う。床を這いずるエージェントは、謎の人影が航時機を近くに寄せてくれたおかげで1992年に飛ぶことができ、航時局で治療を受ける。

火傷により顔も声も変わってしまったエージェントは、最後の重要な任務として、1970年に飛び、ポップ酒場というバーでバーテンダーに就く。そこにやってきた若い男と話し始めるエージェント。若い男は「未婚の母」というペンネームで女性向け雑誌に告白話を書いて生計を立てているという。その本を読んでいるバーテンダーは、「未婚の母」の話は女の視点で語られていると彼を誉める。女の視点ならよくわかると言う「未婚の母」に、バーテンダーはそのわけを教えてくれと乞うが、「未婚の母」は信じやしないと拒否する。酒の瓶を賭けることを条件に、「未婚の母」である若い男は語り始める。

「私が少女の頃・・・」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解説と感想(ネタバレあり)

厨二の時はウロボロスに憧れる

本作では何度もタイムスリップが行われており、初見だったり意識して見なければ、物語がとても複雑に見せるかもしれない。しかし、この作品の巧みなところは、一度理解してしまえば、バラバラだったシーンが見事に一本につながる。

まず一番重要なことだが、本作の登場人物はほとんどひとりである。イーサン・ホーク演じるバーテンダーサラ・スヌーク演じるジェーン、ジェーンが性転換した姿のジョン、ニューヨークで爆破事件を起こす「不完全な爆弾魔(フィズル・ボマー)」。この三人はすべてひとりの人物であり、ひとつの円環を形成している。

とりあえず、各シーンと時系列を確認しよう。下の図は各シーンを時系列に並べたものである。緑の矢印はバーテンダーが行ったタイムトリップ、赤い矢印はジョンが行ったタイムトリップ。シーンの横にある番号は、作中で描かれた順番である。複数の数字があるものは、複数回描かれた場面だ。見づらいと思うが許してほしい。

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シーンを時系列に直した表

実に複雑である。とくに後半になってから、バーテンダーは怒涛のタイムスリップを行う。やってることもタイムパトロール案件だ。

映画のシーン順に解説していこう。ここでは、イーサン・ホークが演じているのをバーテンダーサラ・スヌーク演じているのをジョンとする。

1970年3月、冒頭の爆弾の解除に失敗する人物、これはジョンだ。ジョンは火傷を負うが、未来から来たバーテンダーにより助けられる(ここでバーテンダーが助けに来た理由は後述)。時航局に帰ってきたジョンは手術を受けてバーテンダーとなる。

つぎにバーテンダーは最後のミッションに向かう。

最後のミッションは、過去の自分を恋に落とし失恋させ、自分に自分を出産させて、性転換した自分を時航局のエージェントにすること。本作で描かれているのはこの部分。

まずバーテンダーは1970年11月に向かい、そこにやってくるジョンを1963年にタイムトリップさせる。目的はジョンをジェーンに引き合わせ、ジェーンを妊娠させること。つまり自分と自分の子を作ることである。実際にそんなことが可能なのかよ、という疑問は置いておこう。

1963年にジョンを置いてきたバーテンダーは1970年の3月に向かい、火傷を負ったジョンに変界機(タイムマシン)を渡す。バーテンダーがこの時代にやってきたことは、一見すると脈絡がないように思える。しかし、ジョンは自分が火傷を負ったとき、助けに来た人物(バーテンダー)の顔を見ている。ジョンは火傷の治療を受け、顔と声が変貌したとき(バーテンダーになったとき)、助けに来たのが未来の自分だと悟った。つまり、助けに来たのが自分だと知っていたから助けに行った、ということになる。非常に逆説的、パラドックスなイベントだ。

つぎにバーテンダーは1964年に向かう。この年では、ジョンが姿を消したことでひとりになったジェーンが、ジョンとの間にできた赤ん坊を生んでいる。バーテンダーはこの赤ん坊を盗み出す。

そして1945年に飛んだバーテンダーは、孤児院に赤ん坊を預ける。この赤ん坊は成長してジェーンになる。つまりジェーンは自分で自分を生んだことになる。ジェーン(ジョンでありバーテンダーでありフィズル・ボマー)は、成長した自分と男になった自分の子どもということになる。2つの時間軸の自分の間に生まれた自分だ。

まるで禅問答のようだが、おわかりいただけるだろうか。すべての人間には生物学的には父親と母親が存在し、さらに祖父母もいる。辿っていけばその系譜はピラミッドのようになる。しかし、ジェーンはそれが円になっている。というより、系譜というものが存在しない。人間は親から子へと進んでいく。しかし、自分が親であり子であるジェーンは、時が進んでもぐるぐると回っているだけだ。親になったジェーンは子のジェーンを生み、その子がまた親としてのジェーンになり子のジェーンを生む。ジェーンは一種のループに入っている。

話を戻そう。孤児院に赤ん坊の自分を置いたバーテンダーは、1963年に向かいジョンを回収する。ジェーンにとってはジョンが突然姿を消したことになる。そしてここで、ジョンはバーテンダーが自分自身だと悟る。

1985年にジョンを連れてきたバーテンダーは、彼を上司のロバートソンに預ける。これから、ジョンは時航局のエージェントとして活動することになり、バーテンダーは引退する。

引退したバーテンダーは1970年に飛び、そこで余生を過ごすことを決める。しかし、その年はフィズル・ボマーがニューヨークで大規模なテロを起こす年であり、そんな年に彼が飛んだのは、フィズル・ボマーを止める気があったからだと思われる。

バーテンダーはロバートソンから受け取った資料から、1970年の3月にフィズル・ボマーがコインランドリーに現れることを知る。当日、バーテンダーはコインランドリーに向かいフィズル・ボマーと対面。フィズル・ボマーが自身だっと知る。バーテンダーはフィズル・ボマーから協力を持ち掛けられるが、彼を撃ち殺す。物語は、バーテンダーがまだ機能する界変機を見つめるところで終わる。

このラストは、バーテンダーがやがてフィズル・ボマーになることを示唆している。なぜ彼の人格が大きく変わり、フィズル・ボマーになるかは明白だ。度重なるタイムトリップにより、彼は精神病と認知症を患っている。そのうえ、彼は作中で何度も、自分にはこの仕事(時航局のエージェント)しかないと語る。彼は引退したが、仕事を忘れることができない。おそらく精神病と認知症のせいで骨董品屋のアリスとの関係もうまくいかない。追いつめられていったバーテンダーは、かつてのように変界機を使って過去の犯罪を防ぐことを始める。しかし、病によって認知の歪んだ彼は、爆発によって犯罪が起こる場所を破壊するという本末転倒な行いを始める。そして彼はフィズル・ボマーになっていく。

以上が『プリデスティネーション』の解説。たぶん、こんな感じであっていると思う。

 

All You Zombies

じつに巧妙なストーリである。原作もアイデアを簡潔にまとめた素晴らしい短編だが、映画はアイデアに見事な肉付けを果たしている。原作では淡々と語られるジョンの過去をしっかりと描き、フィズル・ボマーというキャラを登場させることで、ジョンの顔をバーテンダーに変える原因を作り、ジョンをスカウトするだけの原作に比べてエンタメ性も向上させている。

複雑なストーリーだがけっして解けないようには作られておらず、すべてが分かったときの爽快感はたまらないものがある。記憶を消してもう一度視聴したくらいだ。

ツッコミどころや気になるところもある。出産と射精が可能なほど両性の性器が成熟するインターセクシャルが存在するのか? このタイムループの一週目は発生するのかなどだ。

インターセクシャル(いわゆる半陰陽)の人々は、両方の性器(の一部)を持つが、たいていの場合片方は未熟である。それがホルモン投与で、しかも二次性徴を過ぎた人間を生殖が可能なほど成熟させることができるのだろうか。こういうことは詳しくないのでわからないが、かなり厳しそうである。

そしてジェーンが陥っているタイムループだが、これは未来の自分の干渉をもって構築されるループだ。だが、一週目のループではまだ未来の自分は存在しないが、未来の自分が干渉している。このあたりは、ジェーンが時間の流れから外れた存在であり、直線的な時間の流れのロジックを当てはめることができないのだろう。それこそがまさしく「輪廻の蛇」なのだから。

ロバートソンの存在も気になる。フィズル・ボマーはすべてはロバートソンの意のままだと語った。また、ロバートソンは引退したバーテンダーにフィズル・ボマーの居場所を突き止めたファイルを渡している。ロバートソンはフィズル・ボマーの正体に気がついているし、その動向も掴んでいる。それでも彼がフィズル・ボマーを止めないのは、ジョンという優秀なエージェントを確保するためだろう。百の事件を阻止するには、フィズル・ボマーの犠牲も止む無しという考えなのか、自分がひとりの人間の人生をまるっと操っていることに喜びを見出しているのかはわからない。だが、変界機が壊れないことも、フィズル・ボマーの正体にうすうす感づいていたバーテンダーの取る行動も、すべて彼の意のままということだ。ロバートソンはフィズル・ボマーと同じく原作には登場しないキャラクターである。

原作の締め方は、映画としては物足りない。そこでフィズル・ボマーという悪役を倒すことで締める。フィズル・ボマーもジェーンの円環に組み込みたい。それなら、ジェーンがフィズル・ボマーへと変貌する原因が必要となる。そこで認知症や精神病というタイムトリップの副作用を付け加える。さらにロバートソンを作りすべてを操らせれば、そのあたりは解決できる。ロバートソンは物語全体の弱いほころびを繕うのに、非常に便利だ。ある意味では、製作側と同じ神の視点と力を持っている。

フィズル・ボマーは殺したが、ニューヨークの爆破は止められないと思う。なぜなら、フィズル・ボマーは自由に時間を行き来できる。殺した時点より以前フィズル・ボマーは1970年にやってきて爆破を行うし、それが決まった未来なのだ。そもそも、ニューヨークの爆破自体、フィズル・ボマーを生み出すためのロバートソンの自作自演かもしれないのだ。

この物語は、ひとりの人間の悲しい人生だ。孤児として生まれ、知らずに自分に恋をして捨てられ、生んだ子どもを取り上げられた挙句、性転換まで余儀なくされる。なんとか生き延びてたどり着いたのは、かつての自分を捨てたのは自分自身だということ。そして今度は自分を捨てなければならない。それからは時間を飛び回り、顔も声も変わってしまい、自分の人生の悲しみすべてを再現するために過去へと戻る。最後には自分を撃ち殺して、爆弾魔へと変貌する。predestinationという単語には、運命や宿命という意味のほかに、「予定説」という意味もある。「予定説」とは、キリスト教神学の考え方のひとつで、神によって救われる人間はあらかじめ決まっている、という説である。この説によると、救われないことが決まっている人間は、どれだけ善行を積もうと救われないということになる(もっとも、救われるような人間は善行を積む人間なのだが)。この物語も、けっして救われることのないひとりの人間の話なのだ。

終盤にバーテンダーが独り言ちる「お前らゾンビは?」というセリフ。これは原作の原題にもなっている(All You Zombies)。このセリフを解釈するのは難しい。バーテンダーの世界は生まれることも死ぬことも自分だけで完結している。自分がどこから来たのかも知っている。自分の死が新しい自分に繋がることも知っている。一方で他の人間は、他人から生まれ他人へと繋がり死んでいく。死ねばそれっきりだ。バーテンダーにとって他人は、自分のループの中に現れる、自分によく似た異質な存在だ。姿は人でありながら、人ではないゾンビに見える。あくまで個人的な解釈だが。

海外では、これを哲学的ゾンビに結びつける向きもあるようだ。哲学的ゾンビとは、姿形はもちろんのこと、脳の電気信号も人間と同じように発生作用するものの、意識を持たない哲学上の存在のことである。詳しくは調べて欲しい。

バーテンダーにとっては、他人はまさしく哲学的ゾンビのような、似ているが決定的に異なる異質な存在ということだ。ハインラインが唯我論に傾倒していたなどもあったが、真偽はわからない。もっとも、哲学的ゾンビという考え方は90年代に登場したものなので、ハインラインは知らなかっただろうが(原作は1959年に出版)。

 

 

まとめ

複雑なストーリーに複雑なキャラクターを持ちながら、しっかり解けるパズルになっている『プリデスティネーション』。タイムパラドックスSFの名作であり、素晴らしいアイデアの原作を見事に映像化している。解説を読んだあとに、もう一度本編を見返してほしい。書き損ねた細かな描写やヒントが見つかるだろう。

映画感想 汝の敵日本を知れ

『汝の敵日本を知れ』

  (原題:Know Your Enemy:Japan)

1945年 63分 アメリ

評価 8.5点/10点満点中

 

今回の内容には政治的な内容が含まれるので、見たくない人は無視してください。

 

プロパガンダと聞けば大仰なようだが、宣伝と言い換えてしまえば身の回りに溢れている。街中はもちろん、テレビやインターネットにも。それらと触れずに生きていくのは現代では困難だろう。

多くの場合、プロパガンダは政治的な扇動を行うための宣伝とされる。中世ヨーロッパでは教会が人々をたきつけて十字軍をイスラエルに向かわせたように、二十世紀でも多くの国がプロパガンダを用いて国民の意識を戦争へと向かわせた。

本作は太平洋戦争中にアメリカで作られたプロパガンダ映画である。日本の文化や国民の特徴が、侮蔑的な言葉とともに語られる。ただ、この映画は差別的なプロパガンダとしては終わらない。作中で語られる日本人の特徴や文化は、見事に的を射ているものが多く、アメリカの分析力には舌を巻く。すべてが正しいとは言えないが、先の破滅的な大戦に日本が向かってしまった理由も見えてくる。

本作の公開は1945年の八月九日。広島に原爆が落とされて三日目、そして長崎に原爆が落とされた日でもある。大戦の末期も末期なので、実際には軍隊にも民間にも公開されなかったようである。まあ、そこまでくると意味ないしね。

あらすじは書きようがないので、省略します。

 

 

 

 

 

 

感想(ネタバレ?あり)

汝の過去日本を知れ

まず語られるのは日本兵のこと。体型は兵士とは思えないほど貧相であり、顔は焼きまわしのようだと述べられている。たしかに欧米の兵士と比べれば体型に関しては劣っていただろう。顔に関しては人種が異なるという点が大きいのではないか。意外だったのが、日本兵の忍耐力や頑強さを評価しているところ。プロパガンダとはいえ、敵を見くびるべきではないということだろうか。ご飯を食べて笑う日本兵の映像を見たときには胸が痛んだ。自分たちと変わらず楽しそうな笑みを浮かべる彼らが、異国の地で人を殺したり殺されたりした。殺されなくても多くは飢えと病で死んでいったのだ。

内容はそのまま、日本人の精神性と天皇の話題に移る。とくに、日本人の精神と天皇は強く結びついていると語る。実際に、大日本帝国ではそうだろう。日本人にとって大統領とローマ教皇とイエスを足した存在だと説明されると、現代に生きる我々にもその存在の影響力がうかがえる。

天皇の存在や歴史についても説明も詳しい。天皇の誕生に関する神話から、八紘一宇まで語られている。現代では八紘一宇なんて知らない人のほうが多いだろう。

神道についての説明は、自分にとっても新鮮なものが多かった。とくに霊(spirits)に関することだ。英霊や八百万の神々(なぜか本編では九百万となっていた)という考え方はいまでも存在するが、もっと広い死者の霊と神道を結び付けるのは現代ではあまりしないのではないだろうか。そう思いながらも、ご先祖様という言葉を思い出してみたりする。ご先祖様が見守ってくれるというのは、作中に語られる霊の役割と同じかもしれない。

ここでも意外なのが、神道の本来の姿は古風な信仰であると、説明されるところである。しかし、明治に入り神道が国家と結びつき、狂信的な教理を持ち込んだと語る。その教理こそが八紘一宇だ。

八紘一宇とは、「八紘(世界)をひとつの宇(いえ)にすること」でこれを国家の使命として、戦前戦中はこの言葉が日本の侵略戦争を正当化するスローガンとして使われた。本作でも頻出し、かなり詳しい説明がでてくることから、アメリカ側もこのスローガンを重要視していたことがわかる。

そもそも八紘一宇とは日本書紀に出てくる言葉から、戦前の宗教家の田中智學が提唱した言葉である。田中自身は八紘一宇を侵略正当化のスローガンとして唱えたわけではなく、すべての人種や民族が各々の場所で自身がもつ文化特徴を活かすこと、くらいに唱え、戦争には反対していたらしい。もっとも、田中は日蓮主義の国体論者であり、八紘一宇にもその中心に一大生命があるとしている。この一大生命は天皇だろう。

田中の唱えた八紘一宇を軍部がさらに過激にして喧伝したのが、現在でイメージする八紘一宇だ。近衛内閣によって国家スローガンとされたのだから、この言葉が当時の日本でもつ意味は大きかっただろう。自分自身、八紘一宇の大まかなことは知っていたが、この映画を見なければ誕生の経緯まではしらなかっただろう。戦中のアメリカ映画からでも学ぶことは多い。

閑話休題

八紘一宇国家神道の考えにより、日本兵は降伏よりも死を選ぶと語られる。死ねば軍神や英霊となるが、生きて帰れば家族まで及ぶ恥辱となるからだ。目を開いて死んだ兵士、手りゅう弾を裂けた口にくわえる兵士など、痛ましい絵が続く。当時の思想の異常性と戦争の恐ろしさを知ることができる映像だ。

続いて日本の地理がざっと説明され、話題は歴史へと移る。歴史では武士道が中心になっている。武士道といっても、現在で語られる忠義の心のようなものでなく、正反対に裏切りやだまし討ちを奨励したものである、と説明される。たしかに、弱肉強食の戦国時代では裏切りやだまし討ちは当然のことであり、それこそが立身出世、そして生き残る道とされた。我々が抱く武士のイメージは、平和な江戸時代以降に作り上げられたものが大きいだろう。

秀吉の朝鮮出兵に続き、キリスト教の伝来が語られる。ここで本作がプロパガンダ映画だと言うこと思い出す。やはり戦前のアメリカだからか、キリスト教を人類平等の愛と平和の宗教であり、キリシタンの弾圧を強く非難している。たしかにキリスト教の教理自体は愛と平和かもしれないし、キリシタンの弾圧は酷いものだが、当時はキリスト教のもとにアメリカ大陸や東南アジアへヨーロッパが進出していた時代だ。ある意味では、キリスト教が八紘一宇となっていた時代でもある。プロパガンダ映画だからこその違和感があった。

面白いのは、天皇とは幕末になり中央集権国家を建設するにあたり祭り上げられたものだと断言していることだ。実際に、平安時代の摂政政治から江戸時代の武家政治まで長きにわたる長きにわたり、天皇の政治権限は弱かった。この映画では、日本が明治維新天皇が中心の国家になったとはいえ、本当のところは武士階級による支配が続いているとされている。たしかに、明治維新を成し遂げた志士たちの多くは、武士階級の出身だった。武士階級の子孫が政治家や軍人の地位におさまっており、戦中の当時でも支配構造は江戸時代から変わっていないと看破している。選挙が行われても、日本は貴族階級が支配しているのだとも。これは現代の日本でも同じかもしれない。日本の政治家には世襲議員が多く、自民党はとくに突出している。そして彼らの祖父や曽祖父は、戦前戦中からの政治家である。2019年現在の首相安倍晋三の祖父の岸信介は戦前からの政治家であり、さらにたどれば長州藩士の家系だ。武家階級といえどもピンからキリまであるが、この階級がいまでも力を持っていることは確かだろう。

ここから映画は日本人の精神性について語る。ここからが今の日本人にとっても耳の痛いところである。一部を引用する。

「上の者は下を支配する。下の者は上に服従し、中世さながらだ」

「今日でさえ日本に道徳的な正誤はない。上に服従的かどうかが問われるのみ」

「近代化されても生活は向上せず、個人の幸福は顧みられない。苦痛は神聖な美徳なのだ。だから日本人は働けるだけ働く」

「小作農は他国よりよく働き、さして食わず税も払うが文句を言わない」

「工場労働者は週48時間の高給取りではない。薄給で72時間働きづめ」

「なぜ日本人は運命を甘受するのか。なぜ労働組合を作り反抗しないのか(中略)自ら望んで鉄壁の社会構造に囚われている」

「日本の識字率は97%。だが日本の学校は心を育てない(中略)目的は同じ思考をする学童の量産」

書いていればキリがないのでこれくらいにする。どうだろうか? もちろん、反論することもあるし、当時のアメリカが自分のことを棚にあげているが、いまでも日本人の精神性や社会構造に通じるものがあるだろう。上意下達、お上思考、ブラック企業詰め込み教育。戦後、この国は生まれ変わったように見えて、まだまだ古い考えが根幹には残っているのだ。終戦から七十余年。この国には変わったところも多いが、根本が変わるにはまだ短いのかもしれない。

 

服を着た愚者が裸の愚者を笑う

本作の後半はかなりの日本批判が続くのだが、その中でも興味を惹かれるものがあった。日本が安売りコピー商品を海外で売りさばいているというものだ。それを支えるのは小さな家庭内手工業者で、彼らは奴隷のように働いている。しかし彼らの生活が良くなるためにお金は使われず、もっぱら軍事のために使われる。

少し前まで激しかった中国批判に似ている。中国は他国の商品をコピーして、工場を建設して国民を働かせる。そのお金は人民解放軍、ひいては共産党のために使われる。

かつての日本も同じだった。はたして中国を笑っている場合だろうか。注目すべきは、当時の日本製品の半分以上が家庭内手工業者が作っていたところである。現在の日本でも中小企業が日本を支えている。にもかかわらず、大企業による下請けいじめという問題がある。やはりここでも、本質は変わっていないのかもしれない。

終盤では、日本軍による蛮行とアメリカ軍の称揚が流される。日本の戦争犯罪というと南京事件などが注目されるが、ほかにもマニラ戦における市民の虐殺やバターン死の行進重慶爆撃など、多くの日本人が忘れてしまったことがある。これらの反省をすることが、アメリカの原爆や各地への空襲、そして沖縄戦を批判するための第一歩だと思う。ついでに、マニラ戦の市民の被害にはアメリカ軍の攻撃によるものが含まれていることは書いておくべきだろう。結局のところ、戦争には大義などなく、一部の人間が利益を求めるために起こすのだ。そして多くの人間が命を失うことになる。

 

 

まとめ

偏見があるとはいえ、戦前の日本を知ることができる作品。図星を指されるようなものも多く、日本の過去と現在を顧みるきっかけになるかもしれない。もちろんプロパガンダ映画なので、差別表現も誇張もあるし、アメリカが言えたことかと思うこともある。だが、他人ごとにしてはならない過去が七十余年前には存在したことを教えてくれる作品である。