自分という病

主に映画の感想 たまに変なことも書きます。あらすじは長いです。

映画感想 サードアイ

『サードアイ』(原題:mata batin)

2018年 107分 インドネシア

評価 5点/10点満点中

 

サードアイ(第三の目)という単語を調べるとたくさんのスピリチュアルな記事やブログが出てくる。すごく胡散臭くて面白そうだ。なんでも眉間にはチャクラの出口があるらしく、訓練によって眉間にあるサードアイを活性化できるのだとか。

チャクラはヒンドゥー教において体に存在するエネルギーの中枢で、ヨーガにおいて重要視さるという。『NARUTO』においてチャクラはエネルギーとして描写されたが、本来はエネルギーの中枢のことだ。中国医学のツボに近いものだろう。ちなみに全部で七個あるとのこと。

サードアイが開くと直観力や想像力が増したり、訓練によってはテレパシーや嘘を見抜く力までつくらしい。残念ながら72時間拷問を受ける幻術をかけたり、「イザナミだ」だったりはできないらしい。チャクラは七つしかないので、伝説の忍に最強と称えられる体術の発動には一つ足りない。残念。

本作ではサードアイを開くことにより死人(霊)が見える、要するに霊能力を開花させることができるという設定だ。原題のmata batinはインドネシア語で「内なる目」を意味し、サードアイの別名だ。サードアイを幼くして開いた妹を助けるために、自らもサードアイを開眼させた姉。そして彼女の恋人が恐怖と戦う話だ。初めて見るインドネシア産のホラー映画はいかに?

なお本作は2017年にインドネシアで公開されており、東南アジアでは劇場公開されたようである。NetFlixのオリジナルかと思ったが、どうやらNetFlixが配信の権利を買い取った作品のようだ。間違いだったらすみません。

 

 

 

 

 

あらすじ(ネタバレなし)

2005年のジャカルタ、アリアは両親と妹アベルとともに暮らしている。家族は裕福なようで、庭は庭師のアセップがいないと管理がままならないほどに広い。幸福そうな彼女たち一家にも悩みがある。それはアベルの奇行で、彼女は見えないものを見たり聞こえないものを聞いたりする。そのため彼女は常にヘッドホンをつけている。アリアは彼女の言葉に懐疑的で信じようとしない。

ある日、アベルは庭で「この家から出ていけ」という男を目撃したという。アリアは取り合わないが、その夜、彼女は傷だらけの男がアベルの部屋に入るのを目撃する。アベルの悲鳴がこだまする中、両親とともにアリアは部屋に入る。ベッドで怯えていたアベルの両足には引っ掻かれたような傷ができている。事件は強盗の仕業として処理されるが、アリアの胸にはしこりが残る。

12年後の2017年、アリアはタイのバンコクで暮らしていた。仕事もありダビンという写真家の恋人とともに順風満帆な生活を送っていた彼女のもとに、両親が事故死したという訃報がはいる。

ジャカルタに戻ったアリアは、まだ学生のアベルのためにこの地へ戻り暮らすことを決める。ダビンも彼女についてジャカルタで暮らすことにする。アベルが住んでいるのはかつての家ではなく父が勤める会社の社宅で、近いうちに出ていかねばならない。そこでアリアは、かつて住んでいた家に戻ることにする。アベルは渋るが、経済的な理由もあり、姉妹は幼少期を過ごした家へ帰る。

久々に庭師のアセップとも再開し、ダビンを含めて三人でジャカルタの家で暮らしを始める。夜、食欲がないと夕食を食べなかったアベルだが、空腹のため深夜に食べ物を取りにキッチンへと向かう。部屋に戻ろうと階段を上るアベルの足に、12年前に見た傷だらけの男がすがりついていた。アベルは悲鳴をあげ部屋へと走り、それを聞きつけたアリアとダビンが部屋へと向かう。12年前と同じ男を見たと語るアベルに対し、アリアはあれは強盗だったと諭す。しかしアベルは、幼いころに「サードアイ」が開眼し死人が見えること、小さいころ母に連れられてブ・ウィンドゥという霊能力者に相談していたことを話す。ブ・ウィンドゥのもとに行っても問題が解決しないなら精神科に行くことを条件に、アリアはアベルを連れてブ・ウィンドゥを訪ねる。

ブ・ウィンドゥと話したアリアは、アベルの話を信じるために自分にもサードアイを開眼させるよう頼む。ブ・ウィンドゥは了承して儀式を行うが、アリアは変化を感じ取れず、そのまま帰宅。明日学校のあと精神科に連れて行くとアベルに言う。ダビンは家族と会うためにバンドンという街に向かうためにアリアの家を離れる。

彼を見送ったあと、アリアは自分の腕に手形のような痣があることに気が付き病院へと行く。待合で順番を待っていると、車椅子少女に話しかけられる。彼女は父から虐待を受けていると言い、少し離れたところにいる母に「それでもお父さんを愛している」と伝えてほしいとアリアに頼む。戸惑いながらも了承したアリアはちょうど診察に呼ばれ処方箋を受け取る。待合に戻ると少女がいないことに気が付き、少女の母親に伝言を伝える。すると少女の母は「娘は今朝死んだ」と憤り、アリアは困惑する。待合にいた職員に尋ねても、アリアは一人でいたと言われ、不安に駆られた彼女はトイレに駆け込みアベルに電話し、死人の見分け方を問う。アベル曰く見分ける方法はないが、だいたいの場合彼らは恐ろしいと答える。そのとき、トイレの個室から音がしたので近づくと、扉を通り抜けて老婆の霊が彼女に襲い掛かる。慌てて病院を出た彼女は何人もの死人を目撃し、自分がサードアイを開いたのだと確信する。

その夜、深夜に物音で起きたアリアは、家の中に家族の霊がおり、12年前に見たのはその家族の父親だと知る。姉妹を脅かす家族の霊に対処するため、帰ってきたダビンも連れて、アリアは再びブ・ウィンドゥを訪れる。

 

 

 

 

 

 

 

感想(ネタバレあり)

石に瑕

なんとも惜しい作品。ホラー演出は基本を押さえていて、その点に関しては笑えないレベルのホラー映画とは一線を画している。だが、基本に忠実ということは斬新さがないということであり、ホラーを見慣れている人なら既視感を覚えることが多い。ホラー初心者にはお勧めできる作品だろう。

演出の欠点は、序盤の霊のアクションだろう。アリアが病院で遭遇する幽霊たちは、コマ送りのようにカクカク動き、ワープしたように距離を詰めてくるのだが、処理落ちしたゲームのキャラにしか見えない。霊全部がこういうアクションならまだわかるが、一番出番の多い一家の霊は滑らかに動く。映像技術が未熟なのか、演出が雑なのか。

アセップがしぶとすぎである。腹を貫通する傷を負い、足まで切断されたにも関わらずなかなか絶命しない彼は、きちんと反撃していれば勝てた気がする。いずれにせよ、やりすぎな演出はギャグにしかみえない。

ストーリーもそれなりにまとまっている。一方で、見逃せない粗や演出と同じく読めてしまう展開が多い。褒めるべき点もあるのだが、どうしても欠点が目についてしまう。

本作のストーリーの目玉は、家に憑りついている家族を殺した犯人の正体、そしてダビンが実は死んでいたというものだろう。だが、両者ともに欠陥をかかえている。

まず一家惨殺の犯人が庭師のアセップというのは、強盗が出てきた時点で推測できて意外性がない。本作はアリア、アベル、ダビン、ブ・ウィンドゥ、アセップくらいしか登場人物がいないので、消去法でアセップが浮かび上がってしまう。使用人を増やしたりして家に関わる登場人物を増やせば、犯人を推理する楽しみが生まれるだろう。

そしてダビンがすでに死んでいたという展開。おそらく制作側も一番力を入れていたであろうこのどんでん返しだが、伏線が荒すぎるうえに必要性を感じない。

ダビンはカフェでの場面を回想して、自分が死んでいることを自覚するが、回想時にダビンの後ろでアリアに向けて手を上げて男は、序盤の実際のシーンではアリアに軽く視線を送るだけなのだ。回想と実際のシーンが異なるというのは、どんでん返しというより視聴者を騙しているに等しい。

久々に戻った家でアセップにアリアが挨拶する場面も気になる。ここでアリアは横にいるダビンをアセップに紹介しない。ダビンがアセップに見えていない=ダビンは死んでいるという伏線にとらえられるが、アリアもダビンが死んでいることを知らないのだから、ここで彼を紹介しないのはとても不自然だ。

死んだ自覚がないものは人に触れられるという設定も、どんでん返しのために無理やり用意した設定に思える。ていうかダビン、カフェでドリンク飲んでたやんけ、どうやって注文したんや。店員がサードアイ開いてたんか。

制作側の「『シックスセンス』みたいなどんでん返しいれよーぜ」といった軽いノリが透けて見えてしまうくらい粗い。透けて見えるのは私がサードアイを開いたからかもしれない。

それまで棒立ちキャラだったダビンが活躍させるのは良い。だがどんでん返しのために設定や話を作ったわりには粗さが目立って驚きもないし納得もできない。

玉にはなれない作品だが、石だとしても瑕が目立つ。

 

死後の世界はお化け屋敷

終盤、一家の霊に連れていかれたアベルの魂を連れ帰るため、死後の世界へと飛ぶアリアとダビン。とても恐ろしいと聞かされていた死後の世界、どんな風に描写されるのだろうと期待していたら、完全にお化け屋敷だった。

迷路のように壁に囲まれた通路、適度な距離をとって脅かしてくる死者たち、深部には赤い照明。お化け屋敷なら入場料は五百円くらいか。あれだけ敵意むき出しだった一家の霊も棒立ちで申し訳程度に脅かしてくる。このお化け屋敷がでてきて、個人的にはいままでの粗などすべてが許せる気分になった。序盤から漂っていたシリアスな笑いが、見事笑いに昇華した。

 

幽霊よりも気になるもの

ホラー映画を見ていると、いつ幽霊や殺人鬼がやってくるのか気になって、ついつい画面の端に目をやることがあると思う。本作でも家に潜む幽霊の気配を常に画面の中に探してしまう。

だが、一家の霊なんてどうでもよくなるほど気になってしまうミスが本作に存在する。気づいた人も多いのではないだろうか。

それはアベルがアリアにサードアイのことを打ち明けるシーン。二人が向かい合って話し合い、アベルが話すカットは彼女の正面を、アリアが話すときはアベルの後頭部が映る。まずアベルの正面のカット。このとき彼女は前のシーンとのつながりでヘッドホンは頭についている。続いてアリアが話しアベルの後頭部が映るカット。アベルはヘッドホンを首にかけている。またアベルが話すカット。ヘッドホンは頭についている。

はい、明らかなカットのミスです。カットによってアベルのヘッドホンの位置が変わるのだ。しかも最後の後頭部が映るカットではきちんと頭についている。シーンの繋がりとか余計なものが映りこんだとかいうレベルではない。このシーンではヘッドホンが気になって会話なんか耳に入らない。はたして製作は気が付かなかったのだろうか? それとも気が付いたときには撮り直しの効かない状況だったのか。いずれにせよ、お化け屋敷と並ぶ本作の爆笑ポイントであり、欠点が目に付くこの作品を許せるポイント二つ目だ。

 

まとめ

演出や序盤の展開が無難にできているだけに、無理くりなどんでん返しが残念な作品だ。笑えるホラー映画としてなら、もしくはホラー映画初心者には良い作品、かもしれない。自信をもっておすすめはできない。ただ、序盤の出来を維持できれば、佳作をとれる作品にはなったと思うので、インドネシアホラーのこれからに期待だ。

 

余談1

最後に出てきた背中に穴が開いている霊は、アベルの幼稚園時代の回想に映っている。正直一家の霊よりもこっちのほうがインパクトがあるので、こっちを掘り下げたほうが面白そうだ。第二作が作られている?らしいので、美人姉妹のゴーストバスターズとしてシリーズかするかもしれない。

 

 

余談2

本作にはホラー映画には珍しく、濡れ場どころかキスシーンすらない。これは性に厳格なイスラム教徒が国民の大半を占めるインドネシアのお国事情だろう。イスラム教といえば中東を思い浮かべる人が多いと思うが、実はインドネシアが世界で最もイスラム教徒が多い。いちおう、インドネシアイスラム法を国法としない世俗国家なので、中東のように他の宗教も認められている。ただし憲法で国民は一神教を信奉することが決められているので、無神論はだめらしい。

濡れ場を期待してホラー映画を見る人は、インドネシアのホラーを見ても期待するものはでてこないので注意を。