自分という病

主に映画の感想 たまに変なことも書きます。あらすじは長いです。

映画感想 テイク・シェルター

テイク・シェルター

  (原題:TAKE SHELTER)

2011年 121分 アメリ

評価 7.5点/10点満点中

 

現実にはあり得ないような恐ろしいことが身に降りかかり、すべてを観念した瞬間に目が覚める。ただ悪夢を見ていたのだと安心した経験がある人は多いだろう。夢はただの夢であり、現実ではない。しかし、同じような夢が何日も続いたら、人はそれをただの夢だと切り捨てられるだろうか? しかもそれが、ないよりも大切な家族に類が及ぶような夢なら。

本作『テイク・シェルター』をどのジャンルに置くかとなると、難しい。この映画は個々人の解釈によって、サスペンスにも、ミステリーにも、ドラマにも、あるいはホラーにもなるかもしれない。

主人公は悪夢を見る。それは恐ろしい嵐の夢で、降ってくるのはエンジンオイルのような山吹色の粘り気のある雨。そんなものを毎晩見たら、人は正気でいられるか。

一人の男の悪夢と苦悩、そして家族の葛藤を描いたのが『テイク・シェルター』だ。衝撃というか虚を突かれるようなラストがあるので、起伏に乏しい映画が苦手でなければおススメだ。

 

 

 

 

 

 

 

あらすじ(ネタバレなし。あまりストーリーを長々と書く作品ではないので簡単に)

掘削工事を行う会社で働くカーティスは、優しく美しい妻サマンサ、聴覚障害を持つが純真な心を持つ娘ハンナとともに、平凡ではあるが幸せな日々を過ごしている。

カーティスはある日庭先で、分厚い雨雲が空を覆っているのを見る。雷がとどろく雲を見ていると、雨が彼の体を濡らす。その雨は山吹色で、まるでエンジンオイルだ。

場面が変わりシャワーを浴びるカーティス。普段通りに朝食を食べ仕事に行き、親友であり部下のデュワートと共に現場仕事をこなし、一日を終える。

カーティスが庭で廃材を片付けていると、雲が立ち込め雨が降り出す。すると突然、一家が飼っている犬のレッドが彼に襲いかかる。レッドは彼の腕を噛み、カーティスは悲鳴を上げる。カーティスは自分の悲鳴で目を覚まし、夢を見ていたことを理解する。しかし、腕には噛まれた生々しい感覚が残っている。そして彼は仕事中に、鳥の群れが蛇のようになって空を舞うのを目撃する。言いようのない不安を感じるカーティス。

悪夢と不安に焦燥するカーティス。彼は庭で長らく使われていなかったハリケーン用のシェルターを開く。それ以来彼は、嵐から家族を守るためにシェルターを改良することに没頭する。私財をなげうち、会社の重機を無断で使用するなど、彼の行動は異常になり始め、サマンサや周囲の人々との間に溝が生まれる。彼自身も、自分の異常に統合失調症を患う母からの影響を考えたり、カウンセリングを受けたりするが、シェルター作りを止めることができない。ついに彼の行動は、家庭と仕事に大きな亀裂を生み出すまでになる。

はたして嵐はただの妄想なのか、それとも本当に嵐はやってくるのだろうか。

 

 

 

 

 

感想(ネタバレあり)

飴色の雨

この映画はどう解釈すればいいのだろう? 序盤から中盤にかけてはホラーやミステリーの趣があるが、終盤は心の病に苦しむカーティスと、彼を見放さず支えるサマンサの夫婦愛のドラマに見えるだろう。

結局のところ嵐はカーティスの杞憂に過ぎず、サマンサとハンナの助けによって、カーティスは自分の中にある不安を乗り越える。「ああ、感動的だな~」と、ビーチで遊んでいるカーティスとハンナの姿を見て視聴者は思う。それを嵐がやってきて、しかもその嵐はそれまでと違いサマンサもハンナも見て触れることができるものだ。ここで視聴者は振り出しに戻される。「嵐はカーティスの妄想じゃなかったのか?」と。

正直このラストシーンは自分の中に賛否がある。

このラストがなければ、嵐を不安の比喩として、不安障害の男を描くドラマ映画としてよくできた作品だと思う。カーティスを襲う不安は他人からは理不尽だし荒唐無稽にみえるが、彼にとっては切実な問題であり、統合失調症を患った母に置いて行かれたというトラウマもあいまって、あまりにも大きな不安になっている。

精神疾患を患う人が抱えている不安というのは、たいていの場合、他人からは理解に苦しむものが多い。家の鍵を閉めたのか不安になって頭が真っ白になりパニックに陥ったり、若く健康なのに心筋梗塞で死んだらどうしようとか、はたまた芥川龍之介のように「将来に対する唯ぼんやりとした不安」とか、ともかく不安に根拠がないのだ。

カーティスが恐れる嵐は、エンジンオイルの雨が降り、それを浴びた人々が狂暴化するという、非現実的なものだ。それでも彼は不安を感じ、シェルターへの強迫観念に駆られてしまう。彼自身もその理不尽には気がついている。ここにこの映画のリアリティがある。不安障害の人は自分の不安が非合理だしあり得ないと自覚しながらも不安に思わずにはいられない。

統合失調症の母からの遺伝を気にするのも細かいがいいリアリティだ。精神疾患は遺伝することがある。精神病などといっても、結局のところ体をつかさどる脳やホルモンの異常なのだから、なりやすい体質というものは存在するし、身近にそういう人がいるという環境も病気の原因になるだろう。

精神疾患の男を描いた映画としては、とても細部にこだわっている。だからこそ、最後の嵐がわからないものになる。

いっぽうで、あのラストでないと映画として締まらない気もする。やはりカーティスが見ている夢は異常だ。何日も同じような夢を、しかも彼の不安を煽るようにひどくなっていく夢を見るのはあまりにもファンタジーだ。おまけに夢で犬に噛まれた腕を、彼は起きてからも痛むという。そりゃあ毎日違う悪夢を見て不安に駆られるというのは、映画としてつまらない。だからといって、映画だから、の一言で済ますのは無粋だし、冷笑的な見方だと思う。

ならばラストの嵐は、そもそもカーティスが見る嵐はいったいなんなのか、と考察をしなければならない。

はっきり言ってわかりません。だがそれでは思考停止なので、いくつか考えてみたい。

1.カーティスが見ていたのは予知夢の一種で、嵐は本当に来たよパターンだが、これについてはないと思う。というかこのパターンだとこの映画の面白いところがすべて削がれてしまう。せっかく丁寧にいいようのない不安に翻弄される男を描いていたのに、ホラーでよくある殺人犯は実は生き残っていた、をやられても萎えるだけだ。

2.不安が家族にも伝染したよパターン。精神疾患の家族を持つ人が、影響されて精神疾患にかかるというのはよくある話だ。作中でもカーティスは母の影響を考えている。だが、このパターンでは、家族の支えでカーティスが勇気を振り絞りシェルターのドアを開けた感動が台無しだ。

3.夢と現実がごっちゃだよパターン。本作では、悪夢のあとに覚醒のシーンが挟まれて、視聴者も夢と現実の区別をつけることができるのだが、これい当てはまらない場面も存在する。それは映画の冒頭、カーティスが初めて悪夢を見てエンジンオイルの雨を体に受けるシーン。このあとは突然彼がシャワーを浴びるシーン変わる。彼はなぜシャワーを浴びているのか? 海外では朝にシャワーを浴びるのは普通だが、それでも前のシーンが夢だと決めつけるには根拠が乏しい。むしろ、エンジンオイルの雨に打たれた体を流しているのだとも思える。

「この映画は、初めから最後までカーティスの妄想だったんだよ!」

「な・・・なんだってー!」

まあ、この考察が一番ない思う。意味不明だし、自分で書いててわけがわからんし。

ただこの映画が全体を通して、夢と現実の境目が曖昧に描かれていることは確かだ。明らかに現実のシーンでも、薄い膜を通して見るような距離感がある。

結論としては、ラストの意味はわからない。ただこのわからないが考察の余地を生み出し、人を引き付ける要因にもなる。エヴァなんてわけわからないことだらけだから、二十年経ってもファンがいるんだし。

ゾット将軍だけじゃない

本作のもっとも素晴らしい点は、主演のマイケル・シャノンの演技だろう。彼は『マン・オブ・スティール』のゾット将軍でしか知らなかったし、本作でも基本的に仏頂面なのだが、その顔の下にある心情を細かな表情や仕草で見事に表現している。夢でずぶ濡れでキッチンに立つサマンサに首を振るシーンや、カウンセラーが変わったことに戸惑うシーン。しかめっ面の下にある不安や神経質な本性がよく伝わる。もちろんチャリティーで感情を爆発させるシーンや、震える手でシェルターのドアを開け、青空を見て涙を流すシーンも素晴らしい。とくに後者は、これまで距離を感じていたカーティスのキャラクターが一気に自分の中に流れ込んできて、思わず見ていて涙が出そうになる。カーティスのキャラクターづくりも素晴らしいのだろうが、マイケル・シャノンの演技があってこそだろう。

 

まとめ

簡単なあらすじだけを知って鑑賞すれば、あらゆる人が裏切られる映画だろう。いい意味でも悪い意味でも。個人的には、カーティスという不安にさいなまれる男を丁寧に描いた点、そして見事に演じきったマイケル・シャノンが素晴らしい映画だと思う。

一方で、二時間強という時間は少し冗長に感じられる。100分くらいならもっと多くの人が飽きずに見られるだろう。

ラストについては、いかんとも評価しがたい。

 

余談

鑑賞中、これはノアの箱舟の寓意なんじゃないかとも思ったりした。ただの気のせいだったが。