自分という病

主に映画の感想 たまに変なことも書きます。あらすじは長いです。

映画感想 ザ・マミー

『ザ・マミー』(原題:Veulven)

2017年 83分 メキシコ

評価 6.5点/10点満点中

 

メキシコでの悲惨な麻薬戦争はよく知られている。ギャングの抗争では関係のない一般の市民も巻き込まれるかたちで命を失っている。麻薬撲滅を掲げる政治家は殺され、ギャングを取り締まろうとする警察官も同様だ。もはや軍隊のような装備と人員を持つギャングは、政治や経済に大きな影響力がある。2019年、新大統領が麻薬戦争の終結を約束したが、雲行きは怪しい。

麻薬戦争で親を失った孤児たちが生きていくにはギャングになるしかない。この悪循環がメキシコの現状を悲惨なものしている。

本作はホラー映画と分類されるが、実際に鑑賞するとファンタジーやドラマといった面が強い。『パンズ・ラビリンス』を引き合いに出す人がいるが、まさしく似ている。ギレルモ・デル・トロも本作を絶賛したらしい。彼としては同郷のスペイン映画ということもあるのだろうが。ホラーとして見ればがっかりするだろうが、ギャングにより親を失った子どもたちが生き抜く物語として見れば、けっこう楽しめるだろう。

 

 

 

 

あらすじ(ネタバレなし)

小学生のエストレヤは、授業中の課題としてトラになれる王子様のおとぎ話を書く。トラは強く何者にも負けない。けれども王子はトラにならなかった。王子に戻る方法を忘れていたからだ。外の世界から襲われたとき、自分が何者であるかをわすれてしまう。教室の外から銃声が響き、生徒たちは床に伏せる。震えるエストレヤに、教師が三本のチョークを渡す。「三つの願いよ」と教師は言う。

ストリートで生きる少年シャイネは、壁にトラの絵を描いたあと、カコというギャングの様子を探る。ひどく酔っぱらっているカコは、壁に手をついて道に座り込む。後ろから忍び寄ったシャイネは、こっそりとカコから銃と携帯を盗み、銃をカコの頭に向ける。引き金に指をかけるシャイネだが撃つことができず、振り向いたカコから隠れてしまう。

閉鎖になった学校から帰る途中、エストレヤは銃撃で死んだ男の死体を見る。死体に背を向けて歩き始めたエストレヤのあとを、死体から伸びた血が追いかける。

家に着いたエストレヤは母を呼ぶが、返事はない。テレビは点きっぱなしで、エストレヤは母を探す。彼女を追いかけた血が、エストレヤと母の写真、チノという政治家が映るテレビの画面の上を這って、ワンピースに模様を作る。

シャイネは仲間の三人とともに、屋根の上に作った基地で生活をしている。一番幼いモロが、携帯のロックを外そうとしているシャイネにトラの話をねだる。

あるところに金持ちがいた。金持ちはトラをはじめとしていろいろな動物を飼っていたが、フアスカスというギャング団に殺される。動物たちもみな殺されてしまう。トラだけは檻から逃げ出し、怒りと空腹を抱えて街をさまよう。トラは犬や孤児を食べて生きている。

ひと晩経って朝になったが、エストレヤの母は帰ってこず電話にもでない。空腹を抱えたエストレヤが玄関に佇んでいると、シャイネと目が合う。夜になっても母は帰ってこず、エストレヤは母のことを思い出す。母がつけていた鳥の腕輪を欲しがったエストレヤに、母は大きくなったらと言う。チョークを持ったエストレヤは、母が戻るようにと願う。

寝ていたエストレヤは、自分を呼ぶ声を聞く。母の声かと思ったエストレヤだが、なにかを見て悲鳴をあげ、そのまま外で一夜を過ごす。朝になり戻ったエストレヤは、トラのマスクをして盗みにはいったシャイネを見つける。取り押さえようとするエストレヤだが、シャイネは彼女の手を逃れ、母親はやつらに連れ去られただろう、と言い残して窓から去る。窓から身を乗り出すエストレヤ。家の中から彼女を呼ぶ声が聞こえて、彼女はまた外に飛び出す。

空腹に耐えかねたエストレヤは、シャイネのもとを訪れて食事を求める。追い返そうとするシャイネだが、仲間の説得もあって彼女を自分たちの場所に置くことにする。夜、空腹のエストレヤにモロがビスケットを分け与える。それだけでは足りないエストレヤは、なにか食べ物を探してあたりを探る。地面に落ちているものを拾おうとしたとき、隙間から伸びた手がエストレヤを掴む。エストレヤの名前を呼ぶそれに、エストレヤは母なのか尋ねる。それの姿を見て、エストレヤは悲鳴を上げる。かけつけたシャイネは彼女を怒鳴る。

翌朝、エストレヤはシャイネにたたき起こされる。車がやってきて、下りてきたカコが彼らを追いかける。盗んだ銃を使いなんとか逃げたシャイネとエストレヤだが、幼いモロがカコたちにさらわれてしまう。シャイネたちによると、さらわれた子どもたちはチノのもとに連れていかれて体を刻まれて売られる、悪魔との儀式に使われるという。モロがさらわれた原因はエストレヤにあると、シャイネは彼女を責めて置いていこうとする。エストレヤは自分ならフアスカスを消せると言い、シャイネは銃を彼女に渡し、カコを殺すように命じる。

カコたちのアジトについたシャイネたちは、エストレヤを中に入れる。銃を持ち忍び込んだエストレヤは、ソファに座ってテレビを見ているカコを見つける。カコの後頭部に銃を向けるエストレヤだが、チョークを手に持ち殺さないで済むようにと願う。銃声が響き、怯んだエストレヤが目を開くと、カコの側頭部に穴が開いている。早足にその場を去るエストレヤのズボンの裾から蛇が這い出る。囚われていたモロや子どもたちを見つけたエストレヤは、彼らを伴って外に出る。

シャイネたちに仲間と認められたエストレヤ。どうやって殺したとシャイネに尋ねられると、願っただけと答える。自分が殺したかったと思いをシャイネは吐露する。

カコを殺したシャイネたちだが、カコの弟ティオの手が彼らに伸びる。子どもたちを覆うギャングの闇。エストレヤの母を名乗るなにか。生き残るために、エストレヤはなにを願うのか。

 

 

 

 

 

 

 

感想(ネタバレあり)

生きた人間が一番怖い

前置きでも書いたが、本作はホラー映画と呼び難い。実際のところ、メキシコの麻薬戦争に比べたら幽霊なんて可愛いものだ。すくなくとも、拷問で人を殺す幽霊はいない。本作をネットで検索すると、「ママが殺しにくる」という宣伝文句が見つかる。たしかに間違ってはいないが、殺す相手が思っているのとは違う。本作における幽霊や超常現象はむしろ善玉で、真の悪はギャングと彼らを支配下に置く政治家だ。

パンズ・ラビリンス』でも同じことが言える。ペイルマンもたしかに怖いが、主人公オフェリアの継父であるヴィダルのほうがずっと恐ろしい。本作ではヴィダルの役割をチノが演じるわけだが、彼はヴィダルに比べると恐怖の対象として弱い。ヴィダルはその残酷な行いが丁寧に行われていたが、チノ自身が登場するのは終盤からだ。その上、チノはエストレヤとの約束を守ってフアスカスたちを始末したうえ、エストレヤたちを見逃そうとまでした。エストレヤの母親を拷問のすえ殺したの彼は間違いなく残虐非道なのだが、どうしても作中ではそれが見えづらい。ギャングとつながり、政治家としての権力を手に入れるためならそのギャングすらも始末する。チノの恐ろしさをもっとしっかり描けば、ヴィダルに勝るとも劣らない悪役ができたと思うと残念だ。本作が83分という短い尺なのも関係しているのだろう。

オープニングでメキシコの混乱を文字で説明しているところもマイナス。映画なのだから映像で描いて欲しかった。シャイネのようなストリートチルドレンや日常生活で突然響く銃声、神隠しのように連れ去られる人々など、麻薬戦争の恐ろしさは描かれているのだが、ニュースで得る情報以上の描写はなかったように感じる。

辛い現実を必死に生きようとする子どもたちには引き込まれる。日本の子どもたちとはかけ離れた生活と心持ちのシャイネたち。銃を扱えて引き金も引くことができるし盗みもする。アウトローの世界に生きる彼らは、友人の弔い方まで心得ている。軽口をたたき合いながらも強い絆で結ばれた彼らからは、悲哀や平和な日本では得ることのない友情を感じることができる。ボニーとクライドのようなアウトローが持つ魅力を、幼い子どもたちが持っている。エストレヤが一時リーダーシップを握ったときなどは、子どもらしい無邪気さと、人を殺したものが讃えられる恐ろしさがよく出ている。アウトロー版『スタンド・バイ・ミー』といった感じだ。

子どもたちを丁寧に描いたために、大人たちの描写を怠ってしまったのが本作だと思う。主役は子どもたちなので、そちらを中心にそえるのはその通りだが、対立する存在をしっかりと描けば、さらに魅力的なものに仕上がっただろう。

 

ただの青いウィル・スミスじゃねーか!

実写版『アラジン』の予告編を見たとき、上記のように思った。ランプの精であるジーニーを演じるウィル・スミスだが、思ったよりもそのままのウィル・スミスだった。

さて、本作でもジーニーよろしく「三つの願い」がでてくる。先生に託された三本のチョークを使い、エストレヤは願い事をするのだが、作中でもこの「三つの願い」の実在性をシャイネが否定している。たしかに本作で起きる超常現象は、エストレヤだけがそれを認識している。『パンズ・ラビリンス』での地下世界が、すべて主人公であるオフェリアの空想だとする考察も存在するが、本作でも超常現象はすべてエストレヤの空想だということができる。

母が帰ってくるようにという願いは、母の幽霊はエストレヤの空想だと考えらる。カコはエストレヤが来る前に死んでいたし、動物園とサッカー場がついたマンションが見つかったのも偶然だ。マンションの件はエストレヤが願った場面がないので、彼女の願いかどうか不明だが、これを含めると、願いの数に整合性が取ることができない。マンションでエストレヤはあとひとつ願いが残っていると言っているからだ。

本作の超常現象は辛い現実を生きるエストレヤの精神が生み出した空想、または彼女の精神状態を反映した演出ともとれる。そのあたりを濁しているのも、本作の良い点だろう。

本作ではトラがたくさん出てくる。エストレヤはトラは強いが家を失い怯えていると言うが、シャイネはトラはなにも恐れないと返す。トラが強さの象徴であることは間違いないが、その強さが生み出すもので二人の考えに齟齬がある。エピローグでは両方の考えが間違っていないことが示唆されている。辛いときにはトラになる必要があり、そうではないときは王子になる。そうして現実を乗り越えていかないといけない。辛いことを乗り越えたエストレヤは、最後にトラを置いて行った。

本作の超常現象は、演出の一部としてとらえたほうがいいだろう。この演出がなかなか活きていて、苦境にあるエストレヤの心情や辛い現実を表現し、物語を進める役割を持っている。ホラー以外の目線を持つと楽しめるだろう。

 

 

まとめ

ホラー映画として見たならば本作はゼロ点かもしれないが、強かな子どもたちの姿を描いた映画としては面白い。ただ、尺の都合か足りない描写も存在するし、内容自体も人を選ぶ。誰にでも薦められる良作というわけではないが、惹きこまれる人は一定数いるだろう。ホラー映画を強調した宣伝は、日本の配給会社の方針なのだろいうか? 

あと、音楽がけっこう良い。