自分という病

主に映画の感想 たまに変なことも書きます。あらすじは長いです。

映画感想 私たちの娘、コイ

 

『私たちの娘、コイ』

  (原題:Growing Up Coy)

2016年 82分 アメリ

評価 7.5点/10点満点中

 

 

性同一性障害が一般的な話題になったのはいつ頃だろうか? 性同一性障害は日本では長らく「オカマ」や「オナベ」と呼ばれていたが、ここ最近ではテレビなどでもそういった呼び方は聞かれなくなった。一応、性同一性障害がどういうものか掴めていない人に説明すると、肉体の性別と心の性別が一致していない状態のことを指す。近年では障害という言葉を避けるために、性別違和といった呼ばれ方もする。

日本語には男女を区別する言葉は「性別」の一語だが、英語には「sex」と「gender」の二つがある。「sex」は生物学的な性別、つまり生まれ持った肉体の性別を表すのに対して、「gender」は社会的もしくは文化的な性別を表す。要するに、男らしさ女らしさといった考えだ。たとえば、ランドセルの色は男なら黒、女なら赤といったものの一種のジェンダーだ。「sex」が男であれば「gender」も男であることを要求されるのが、長らく社会の通年だった。もちろん女も同様だ。

しかし、人権意識の向上や個人を尊重する風潮のおかげで、「gender」の境目は曖昧になりつつある。それでも男が男らしくあること、女が女らしくあることは当たり前のことという考えは根強い

本作は、性同一性障害を抱えた六歳の「少女」コイとその家族が、学校に対して、コイが学校で女子用トイレを使うことを認めるように求めた裁判と、世間から集まる注目に葛藤を抱く家族を描いた作品だ。アメリカとは都市部はリベラルで革新的な勢力が強いが、地方では保守的な勢力が強い。コイたちが住むコロラド州ファウンテンは保守的な地域だ。果たしてコイは自らの権利を勝ち取ることができるのだろうか?

 個人的に思うこともあり、普段より長く感傷的な文章になってしまった。

 

 

 

あらすじ(ネタバレあり)

ドキュメンタリーは最後まで書かないと意味がないと思うので、ネタバレありで書きます。細部まで詳しくは書かないのであしからず。

コロラド州の保守的な街ファウンテンに住むマーチス一家。そこに「コイ」はいる。六歳の彼女は男の子の体を持って生まれてきた。しかしながら、物心がついた頃から、コイは男児の服を着ることを拒絶し始め、女児の服を着たがった。ほかにも、髪を短く切るとないたり、外に出ることを極端に怖がった。

父のジェレミーと母のキャサリンは、コイの行動に戸惑った。コイは男児として幼稚園に通い始めたが、ある日、男児の列に並ばされたことで癇癪を起した。それまでもうすうすとコイが抱える問題に気が付いていた両親は、コイを精神科へと連れて行くことにした。ジェレミーとキャサリンは女性として生きることを望むコイの願いを汲んだ。そしてコイは女の子として生き始めた。それ以来彼女は、明るく笑うようになり、外にも出るようになった。

しかし、小学校に上がり問題が起きた。コイが学校で女児用のトイレを使うことを禁止されたのである。両親は抗議し、コロラド州には性同一性障害を持つ人を守る法律があると訴えたが、学校は態度を変えなかった。

性同一性障害の子供を持つ親たちとの交流を通して、ジェレミーとキャサリンは学校、ひいては州をあいてに強い抗議を始めた。

彼らが頼ったのはニューヨークの性同一性障害基金基金の代表であるマイケルは、性同一性障害を持つ子どもたちが直面する現実を語る。性同一性障害を持つ児童はそうでない児童よりも退学率が高い(米国では学校に通わないホームスクールという選択肢がある)。理由として挙げられるのがトイレの問題だ。彼ら彼女らにとって、生まれた性別のトイレを使うことは、異性の前で排泄行為をすることに等しい。またこのようなアイデンティティーを否定する差別は、子どもの将来にとって悪影響を及ぼす。

マイケルはさっそく、コイの扱いに関してコロラド州教育委員会に手紙を出した。返事は期待されたようなものではなかった。教育委員会の主張はこうだ。

コイが成長して男性器などが発達すると、彼女が女児トイレを使うことを嫌がる児童や保護者が出てくる。また、学校は「寛容にも」コイが女児服を着て登校することを認めている。

手紙ではコイのことを一貫して「彼(he)」としており、この手紙に激怒したジェレミーとキャサリンは、子どもたちに学校を止めさせて、ホームスクールという選択肢をとった。子どもを傷つける人々に、子どもを預けられないと判断したのだ。マイケルも州の公民権局に抗議をすることを決めた。

マイケルは直接マーチス一家に会いに行き、これからの心構えを語った。世間の注目がコイ、そして一家に注がれること。それによって地域のコミュニティーに敵を作る可能性があること。もしかすると、家族に直接的な危害が加えられることもあるかもしれないと。ジェレミーとキャサリンは了承した。

マイケルはマスコミへ、コロラド州のコイに対する扱いを公表した。すぐにマスコミはこの話題に飛びつき、コイは注目を集めた。コイはテレビへも出演するようになった。ジェレミーたちの抗議をCNNなどの大手メディアは好意的に捉えたが、同時に一家やマイケルに対する非難も届いた。両親の教育が悪いと罵るものや、マイケルを売名したいだけで、国家を切り裂こうとしていると中傷するものだった。マイケルは、自分はけっしてリベラルのつもりはないと語り、キャサリンも、長い目で見れば大丈夫だと考えていると答えた。

インタビューでコイは、学校に戻りたいかと聞かれた。彼女は、学校が意地悪を止めるなら戻りたいと答えた。

コイの話題は瞬く間に全米に広がり、彼女のトイレ使用に肯定的な意見も否定的な意見もテレビでは放送されるようになった。なかには、そもそも性同一性障害の存在を否定して、コイが女児のように振る舞うのは親の教育のせいで、虐待であると述べる番組まであった。インターネットではコイや一家に対するヘイトが多数を占めた。

メディアへの露出が増えるにつれて、コイは疲れを見せ始めた。また、家族はコイのこと以外にも様々な問題を抱えていた。コイは五人兄弟で、八歳の長女デコタは自閉症スペクトラムを抱えている。コイはマックス、リリーとの三つ子で、リリーは四肢と脳に麻痺の障害を持っている。末娘のアリアは二歳。さらにジェレミー海兵隊を辞めたあと大学に通っているため、これらの子どもたちをホームスクールで面倒を見るキャサリンの負担は大きかった。ジェレミーは学校との闘いの途中から、自身も大学にいる時間を減らして、より協力するようになったが、それでもキャサリンの負担はそれほど少なくならなかった。さらに、唯一の男の子であるマックスは、人々の注目を集めるコイへの嫉妬からか、奇妙な言動をとるようになった。

結局、家族はコロラド州の州都デンバー近郊のオーロラへと引っ越した。都会に近い地域なら、自分たちに向けられる悪意が少なくなるのではと期待してのことだった。

引っ越しにより心機一転を図った一家だったが、問題は消えなかった。コイが近所の子どもたちと遊ぶようになり、子どもたちの親にコイのことを説明するかどうかで、ジェレミーとキャサリンの意見は対立した。聞かれた話すべきと主張するキャサリンに対して、ジェレミーは、コイはすでに有名なのだからおかしなことを聞かれる前に話しておくべきだと主張した。

また、メディアへの対応でも二人はもめた。政治を絡めてインタビューに答えることは保守的な人々を敵に回すことになると考えるキャサリンは、ジェレミーのインタビューへの受け答えがダメだと批難した。二人の関係は悪化した。ジェレミーはカメラに向かってこう言う。

「特別な子をもつなんて思ってもみなかった」

しばらくの間、ジェレミーは家族と離れて暮らすことになった。

枕を父親に見立てて食卓の椅子に乗せる子どもたち。ジェレミーが家に戻ってくる日は、みんなが抱き着いて喜んだ。

家族の問題は解決しないながらも、裁判は着々と進み、判決が出た。

判決はマーチス一家の主張を全面支持するもので、コイの女性トイレの使用を、あらゆる公共施設で許可するものだった。判決には教育委員会への非難も含まれていた。この判決の影響は大きく、カリフォルニア州では性同一性障害を持つ人々の権利を擁護する法案がすぐに通った。

全米が大きく動く中、ジェレミーとキャサリンは、自分たちの戦いをここで終わらせることに決め、メディアへの露出を一切断ることにした。マイケルも了承し、マーチス一家の戦いは終わった。

子どもたちは学校へと戻り、ジェレミーとキャサリンの関係も修復が始まった。コイとマックス、それにリリーの誕生日は平穏で幸せなものだった。家族はインタビューを受ける代わりに動物園に足を運んだ。

ジェレミーは大学を卒業し、マーケティング関係の仕事に就いた。自分の時間を持てるようになったキャサリンは、大学で医療を学び始めた。

マーカスは基金を辞めたが、基金は引き続き性同一性障害を持つ人々を支援する。

2016年時点で、性同一性障害を持つ生徒の権利が守られているのは全米の半数以下である。さらに、少なくとも16の州の議員が、彼らの権利に反対する法案を出した。オバマ政権は、性同一性障害を持つ人々が望んだトイレを使えるように指導した。多くの州で検討されている。

 

 

 

 

 

 

感想

君が君らしくあること それはまた孤独とも言う

上記はBONNIE PINKの楽曲、『鐘を鳴らして』の歌詞の一部である。この一節は、まさにこの作品、ひいては自身のアイデンティティーに悩む人たちの立場を見事に表している。社会で生きることは他人との折衝の連続であり、我を通すことは少なからず他人の反感を買う。特にコイのような性同一性障害という理解されにくいものは、いるだけで奇異の目で見られ、誰にも危害を加えていないにも関わらず攻撃される。

作中でも、コイや彼女の家族、支援者に対して否定的な意見、または差別的な言葉が登場する。それらの差別はどこから生まれてくるのだろう?

知らないもの、理解できないものを人は恐怖するという。そして差別的な感情は、恐怖に起因するとも。彼女を攻撃する人たちの中には、コイのことを猛獣が潜むかもしれない暗闇のように考えているのかもしれない。コイが自分が知っている安定した世界を脅かす存在だと考えて攻撃する。

そのような人々には、性同一性障害を抱える人々の存在は、けっしてあなたの世界を侵すものではない。性同一性障害が存在することであなたがガンにかかることもないし、携帯代が上がることもない。もちろん、世界が滅びることも。そう理解してもらうまで説くことが重要なのだろう。

コイが女児トイレを使うことに反対する意見として、自分の子どもがトイレという空間で男性器を見る可能性があることを危惧するものがあった。たしかに、親としてそれは心配だろう。だが、性同一性障害の当事者たちは、自分の性器を嫌う傾向にある。性器が自分を苦しめる体の性の象徴であるからだ。自らの嫌悪している体の一部を、見せびらかす人がいるだろうか? ましてや女子トイレは個室であり、そのような機会があるとは思えない。

女性が一番危惧するのは、コイのような前例を作ると、性同一性障害と偽った変質者が女子トイレに侵入する、もしくはトイレに侵入した変質者が性同一性障害を偽り罪から逃れようとすることだろう。この問題は非常に難しく、自分はこの点に関しての最良の答えは、すべてのトイレを男女共用の個室にすることだと思う。

日本でも経産省で働く性同一性障害の女性が同じような訴えを起こした。残念ながらこの訴訟の続報が見つからなかったので、どういう経緯をたどっているかはわからない。けれども、ネットでは賛否両論といったところだ。

自分は性同一性障害ならば自分が抱いている性別のトイレに入ってもいい、と考えているが、懸念を抱く女性の気持ちや性犯罪の可能性(性同一性障害が性犯罪の温床になるとは考えていない)をはらむことも理解できるので、情けないが全面的に賛同することはできないでいる。ただ、多目的トイレを使えばいいと安易に述べるのは間違っているだろう。性同一性障害を抱える人にとっては、自分はそもそも女(もしくは男)なのであり、心の性別と同じトイレを使えないということが、そもそも彼ら彼女らの自尊心を傷つけることになる。コイのように幼い子どもならなおのことだ。性の重点を体に置くか心に置くか。目に見える体が重きに置かれやすいのは確かだが、人には心があることも忘れてはならない。結局、こういう問題を解決するには、教育や啓発、相互理解を通して社会が変わっていくしかない。それに反発する人もいるだろうし、社会が変われば取り残された人々がマイノリティになって苦しい思いをするかもしれない。社会はこういった板挟みをどう解決すればいいのだろうか? オーバーロード来ねえかな。

 

議論は起きるか

本作をドキュメンタリー映画として評価した場合、以前感想を書いた『ビハインド・ザ・カーブ』よりも劣っているだろう。

filmetmoi.hatenablog.com

自分はドキュメンタリーに詳しいわけではないが、社会的なドキュメンタリーの役割は社会に疑問や問題を投げかけて、議論を起こすこと、ひいては社会が議論の末により良い結論を見つけることにあると思う。『ビハインド・ザ・カーブ』は、陰謀論を信じる人々をけっして否定的に描いていなかった。彼らをときには魅力的に映し、彼らが抱える苦悩、人間として誰もがもつ一面を描くことを忘れていなかった。陰謀論者をただ否定するのではなく、彼らと我々がどう接するべきか、を改めて考えさせるものだった。

一方で本作は、あまりにもコイや性同一性障害基金への肩入れが強いと感じた。もちろん、コイに対する教育委員会の言動は許されるものではないし、自分は彼女の当然の要望が受け入れられるべきだと考えている。しかしながら、ただのヘイトを送る人々はともかく、反対する人々にも彼らなりの感情や論理がある。本作はあまりにも善玉と悪玉の区別をつけすぎており、もともとリベラルな思想を持つ人が見れば、やはり反対派は人権意識の欠片もないと感じ、反対派の人は自分たちの描き方に不満を持つ。溝は深まるばかりであり、最後には対立が生まれてしまう。性同一性障害に対して曖昧な立場の人たちも、ただコイに同情するか、彼女や家族がわがままだと考えるか、その二極に振れてしまう気がする。

せっかく、マーチス一家が訴訟を起こしたときに、全米で様々な議論が行われていたのなら、それを作中でもっと出すべきだった。議論はどちらの意見が正しいかを決めるものではなく、意見をぶつけてより良い結果をともに見つけるものだ。そこを省いてしまったのは残念でならない。

 

マックスという「普通の子」

そもそも本作を、全米を巻き込んだ人権の戦いをテーマとした社会派なドキュメンタリーとするよりは、コイとその家族を描いたドキュメンタリーとして見たほうがいい。冒頭でマイケルが「我が子を愛する両親の物語」と語っているが、まさしくそうだ。誤解を生むかもしれないが、コイは「普通の子」ではない。そして姉妹のデコタとリリーも「普通の子」ではない。三人の「普通でない子」とまだ幼い子を抱える両親の苦悩の物語だ。じっさい、物語の多くでカメラは両親を捉えて二人の言葉を拾っている。

子どもが性同一性障害だとわかったとき、親はどうするだろうか? 多くの親は受け入れてあげたいと思うことを望んでいるし、自分の子どもがそうだったら変わらぬ愛情を注ぎたいとも思う。しかし、愛しているからこそすんなり受け入れられない部分もある。本当にそうなのか? 自分はこの子をどう扱うべきなのか? 気づいてあげられなかったことを謝るべきか? なにより、この子が直面する厳しい現実や将来にどう立ち向かっていくべきか? 様々な思いが到来するはずだ。作中でも、マーチス一家と交流をもつ性同一性障害の子をもつ母親が、自分の戸惑いと苦悩を語っている。

息子として生まれた子どもに彼女はデュランと名付けた。しかしデュランはある日、オリヴィアと呼んでほしいと言った。彼女は、時間をかけて我が子に名前を付けたときのことを思い出し涙を流す。デュランは男女どちらにも使う名前で、むしろ女性のほうが多い。それでも我が子はオリヴィアを選んだ。言葉を詰まらせながら戸惑いを語る彼女は、我が子を真っすぐに愛する親そのものだ。

もう一つ、ジェレミーが言った言葉も胸に刺さる。彼がキャサリンとの関係がうまくいかなくなり、家を出るとき、「特別な子を持つなんて想像しなかった」と言う。子どもを望む人は、みんなそうだろう。親も人間であり、子どものためにすべてをすることも捧げることもできはしない。それでも親は最善を尽くそうとする。彼の口から漏れた言葉は、愛するからこそ限界に達した親の思いだ。キャサリンに比べると、ジェレミーは少し頼りなく、人によっては無責任に見えるかもしれない。だが、彼は子どもたちを愛してるからこそ、彼なりの責任の限界を迎えてしまったのだと思う。同様にキャサリンも、実際には限界を迎えていて、それがジェレミーや子どもたちの態度に出てしまっている。

そうした親の苦悩で一番つらい思いをしているのは、マックスかもしれない。彼は他の兄弟と異なり、病気や障害を抱えていない。アリアのように幼すぎるわけでもない。マックスは兄弟の中で唯一の「普通の子」だ。

中盤、マックスが注目を集めるコイに嫉妬して、感情のないロボットの真似をしたり、人形の服を脱がせば男だとわかると、奇妙な行動をとる場面が少し映し出される。人形の服を脱がして性別を確かめる行動などは、うがった見方かもしれないがコイを揶揄するようなものに思える。

はたして、マックスはただ世間の注目を集めるコイに嫉妬していただけなのだろうか?自分は違うと思う。むしろ彼は、家族からの注目に飢えていたのではないだろうか。たしかにマックスは一番手のかからない子であるが、まだ六歳の少年でもある。親の愛情をまだまだ欲する年頃だし、両親の間に漂う雰囲気を察せる年頃でもある。かまわれない彼は、おかしな行動や反抗的になって親の注目を浴びたいという、六歳らしい反応を示したに過ぎないのだと思う。障害があろうがなかろうが、親にとっては等しく愛しい子どもたちだろうが、どうしても手のかける時間は障害をもつほうへと向かってしまう。六歳の彼には、とても寂しかっただろう。だから自分は、最後に家族が戦いを止めてよかったと思っている。彼らは彼ら自身のために戦い、彼ら自身のための結果を得た。あとはせわしなかった家族を、落ち着かせるだけだ。

 

 

まとめ

社会派のドキュメンタリーとしての出来は正直いまいちだったが、コイと彼女の家族を描いたドキュメントとしては、十分に良い作品だったと思う。それだけに、社会面に割かれた時間を、もっと家族に焦点を当てていればと感じる。「特別な子」をもった「普通の家族」の苦悩。それは性同一性障害に関わらず、あらゆる親やこれから親になる人々が、直面するものかもしれない。

 

 

余談

コイにとってはこれからが厳しい戦いになるだろう。彼女はまだ六歳だが、成長すれば二次性徴が始めり、彼女の体はどんどん自分が望むものから離れていく。ホルモン治療で抑えることもできるだろうが、それも負担となりやはり困難となるだろう。彼女と家族の前途が明るいものであるのを祈るばかりである。