自分という病

主に映画の感想 たまに変なことも書きます。あらすじは長いです。

映画感想 ヘリディタリー/継承

『ヘレディタリー/継承』

  (原題:Hereditary)

2018年 127分 アメリ

評価 5点/10点満点中

 

 

蛙の子は蛙。この親にしてこの子あり。子どもというのはどうしても親に似てしまう。一緒に過ごす時間が長いからなのか、DNAを受け継いでいるのからなのか、はたまたその両方によるものなのか、ともかく似てしまうものだ。

アメリカで話題をさらった本作。祖母の死後、立て続けに娘を失たった家族を襲う超常現象を描いたホラー映画だ。ヘレディタリーとは「遺伝性の」という意味の形容詞。タイトルの通り、物語の始まりは祖母と彼女の死である。

本国アメリカにおいて本作は非常に高い評価を得ている。興行収入においても批評家のレビューにおいても高水準だ。ただ、個人的には多くの日本人には、宗教観の点から合わないと思う。怖いどころか、笑えてしまう映画だ。

最近の流行りからは外れたホラーで、もしかしたら本作のフォロー作品がこれからたくさん出てくるかもしれない。そういう点では見てもいいだろうが、誰もが見てもホラーとして楽しめる作品ではない。

 

 

 

 

 

あらすじ(ネタバレなし)

アニー・グラハムは、母のエレン・リーの葬儀でスピーチをする。エレンは秘密主義で内向的だったので、これほど多くの人が来てくれたのは驚きだ、とアニーは語る。娘のチャーリーは、祖母の胸にかけられていたペンダントに見入る。

ミニチュア模型作家のアニーは、母の終末期医療を再現したミニチュアを、個展開催に間に合うように制作している。夫のスティーヴンや息子のピーターは、エレンの死に特別な感慨を抱いていなかったが、おばあちゃん子であった娘のチャーリーは、祖母の死を悲しんでいる。チャーリーは、祖母から男の子になれと言われたことを話す。彼女の部屋の壁にはSATONYの文字がある。

母の遺品を整理していたアニーは、スピリチュアリズムに関する本と自身へ向けた母の手紙を見つける。手紙には、多く語れなかったことを後悔している、犠牲は恩恵のためにある、といった不可解なことが書かれていた。その手紙を見ていたアニーは、部屋の隅にエレンの幻影を見るが、幻影はすぐに消える。

チャーリーが学校で授業を受けていると、鳥が窓ガラスにぶつかる。休み時間に鳥の死体を見つけたチャーリーは、その首を切り取ってポケットにいれる。彼女が振り返ると、遠くにエレンの姿が見える。

祖母の死から一週間後、鍵を閉めたエレンの部屋の扉が開いていたことを不審に思ったアニーは、部屋の中に入る。部屋には三角形の模様が描かれている。エレンの部屋に入ったか、と夫のスティーヴンに尋ねるが、彼は知らないと答える。アニーがスティーヴンとともに改めてエレンの部屋に鍵をかけたとき、スティーヴンに電話が入る。電話は墓地からで、エレンの墓が荒らされたという。スティーヴンは墓荒らしというショッキングなことで家族を混乱させないように、誰にも話さずに自分の心にしまう。

アニーは、近しい人を亡くした人々によるグループカウンセリングに行く。そこでアニーは母エレンのことを語る。

エレンは解離性同一性障害で、さらに後年は認知症も発症し別人のようになっていた。父はアニーが赤ん坊のころ、妄想性のうつ病で食事ができなくなり餓死。兄は統合失調症で、十六歳のときに母の寝室で首を吊って自殺。兄の遺書には、「母が僕の中になにかをいれた」と書いてあった。アニーはピーターをエレンに近づけないようにしていたが、チャーリーは近づけた。エレンはチャーリーに”飛びついた”という。アニーは自分の家系に流れる精神病質が、子どもたちに受け継がれないかを心配している。そして、自分を介してエレンの血が子どもたちに流れていることに苦しんでいると語る。

自室にいるピーターがクラスにいる好きな女子のSNSを見ながらマリファナを楽しんでいると、友人からパーティーに誘われる。承諾の返事をするピーターを、何者かが見つめる。チャーリーが部屋でガラクタを使って人形を作っていると、青い光が部屋を駆け巡り窓の外に消える。

アトリエで作品を作るアニーに、ピーターが今夜車を貸してくれないかと打診する。理由を聞かれたピーターは、学校のBBQだと嘘を言う。彼が飲酒するかもしれないと思ったアニーは、お目付け役としてチャーリーを連れていくように言う。ピーターがチャーリーを呼ぶが、返事がない。家の外にいたチャーリーは、燃える草むらに座るエレンの姿を見る。アニーに家の中に連れ戻されたチャーリーは、ピーターと一緒にパーティーに行くように言われる。最初は渋るチャーリーだったが、ついには承諾する。癖なのか、舌を鳴らすチャーリーを後部座席に乗せて、ピーターはパーティーへ向かう。道中にポツンと立つ電柱には、エレンのネックレスと同じ紋様が刻まれている。

パーティーで好きな女子を見つけたピーターは、チャーリーにケーキを食べていろと言い、彼女とともに別室でマリファナを吸うことにする。ナッツアレルギーをもつチャーリーは、ケーキに入っていたナッツのせいで呼吸困難になる。ピーターは急いで彼女を車に乗せて病院へと向かうが、息苦しくなったチャーリーは窓を開けて顔を車外に突き出す。注意のために一瞬目をそらしたピーターは、道に倒れる動物の死骸に気が付くのが遅れて、ハンドルを大きく切る。その拍子に、チャーリーは電柱に頭をぶつける。ショック状態で車を止めるピーターだったが、自分に大丈夫だと言い聞かせて、そのまま家に帰り放心状態のままベッドにはいる。眠れずにいた彼は朝になって、母の吠えるような悲鳴を聞く。アニーが見たのは首のないチャーリーの死体で、彼女の頭は道に転がり、蟻にたかられている。

チャーリーの死を境に、微妙だった家族の関係は急速に壊れていく。そして、精神的に疲弊したアニーが出会った、息子と孫を亡くしたというジョーンという老女。アニー達に、恐怖の手が忍び寄る。

 

 

 

 

 

 

感想(ネタバレあり)

エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、我は求め訴えたり!

本作が日本人に合わないと感じたのは、元凶が悪魔とそれを崇拝するカルトだからだ。アブラハムの宗教の信徒が少ない日本人は、悪魔という存在に対する恐怖が薄い。日本人にとっての悪魔とは、サブカルチャーに登場する属性のひとつであり、悪役であることが多いものの、善玉であることも少なくない。古くは『悪魔くん』や『デビルマン』などがあるし、近年でも悪魔が善玉の作品は枚挙に暇がないだろう。むしろ、神のほうが冷酷な存在として描かれることもある。もちろん、悪魔をテーマにした作品のなかにも、日本人を恐怖に震えさせた映画はある。もっとも有名なのは『エクソシスト』だろう。だが、『エクソシスト』においては悪魔よりも憑りつかれた少女リーガンの奇行が恐ろしいのであり、憑りつくのが悪魔でなく悪霊でもいいわけだ。

一方で、アブラハムの宗教(ユダヤ、キリスト、イスラム)を信奉する人々や、それらの宗教が身近に存在する人々にとって、悪魔というのは日本人が考えるよりもずっと恐ろしい。キリスト教では悪魔に囚われた魂は地獄へと連れていかれ、そこで永遠に責め苦を受ける。悪魔の目的は神の被造物である人間すべての堕落であり、堕落した魂は世界の終末に悪魔とともに神によって裁かれる。アメリカ人の半数は悪魔を信じているとも言われているし、いまでもカトリック教会公認のエクソシストが世界中で悪魔祓いを行っている。

本作は日本語公式で解説サイトが存在する。一応ここでも軽く解説と考察をしようと思う。

祖母のエレンは悪魔崇拝者たちのリーダーであった。ペイモン(パイモンとも)を信奉するエレンたちは、なんとかしてペイモンを地上に召喚しようとしていた。ペイモンの完全な召喚には男の体が必要だが、エレンは夫と息子の体を使っての召喚に失敗していた。孫のピーターを使おうとしたが、娘のアニーによってピーターには近づけなかった。チャーリーに対して男になれと言ったのは、ペイモンの召喚は男の体が必要だったから。おそらく、エレンはペイモンを呼ぶことには成功していた。だが、男の体にいれることはできなかった。チャーリーの奇行を考えれば、エレンは彼女の中に一時避難としてペイモンをいれていたのだろう。たびたび登場する青い光がペイモンだ。

さて、エレンが死んだことにより、残された悪魔崇拝者たちが動く。まず彼らは呪いかなにかでチャーリーの事故を起こす。チャーリーが頭をぶつけた電柱に彼らのマークがあったのは呪いのためだ。そしてチャーリーの死で悲嘆に暮れるアニーに巧みに近づいて、彼女チャーリーを呼ぶ儀式と称してペイモンを呼ぶ儀式を教える。騙されたアニーはペイモンを呼び出してしまい、悪魔の力が家族を襲う。最終的には死亡したピーターの体にペイモンが入り込んで、悪魔は地上に召喚されて万々歳、というわけだ。

公式の解説サイトによると、スティーヴンはエレンの血縁ではないからダメらしい。悪魔崇拝者たちが裸だったのは、それが彼らにとっての正装だからだそうだ。

それでも謎はいくつか残る。なぜエレンは夫や息子で失敗したのか? そもそもなぜ悪魔崇拝を始めたのか? エレン、アニー、チャーリーの首が切断されるのはなぜか? 最後の疑問に関しては、ペイモンの趣味なのかもしれない。

しかし、悪魔の召喚とはずいぶん周りくどいものだ。

 

右手が疼いたあの季節

人によっては、右手に闇の力が宿った時期とか、己の中に邪悪なる人格を宿していた時期があるんじゃないだろうか。自分は力こそ宿らなかったものの、そちらの方面に興味を抱いた時期があった。というか、ホラー好きなので今でも興味はある。自分たちのような人間にとってペイモンという悪魔はわりとビッグネームで馴染みがある存在だ。

魔術書の『ゴエティア』によると、ペイモンは地獄の王の一人で、ルシファーの忠実な部下で地獄の有力者だ。召喚者には人を意のままに操る力と、あらゆる知識を授けるらしい。アニーがエレンのことを「人を操る」と言っていたのはこのためかもしれない。あの場面で急に出てきたこの言葉は意味不明だったが。やたらでかい声でも話すが、作中にとくにその描写はない。見た目はラクダにのった女の顔を持つ男の悪魔だ。女の顔を持つ点は、ぺイモンの像にアニーの頭が載せられていたのところに繋がるか。容姿的な特徴のせいか、日本の創作では美少女に描かれることが多い。まあ、それはパイモンに限ったことではないが。

しかし、なぜパイモンなのだろう。他人を操る力だとか、知識を与えるというのは他の悪魔も授けてくれる、わりとメジャーな恩恵だ。いっそのことルシファーとかベルゼブブにすればいいのにと思ったりするのだが、このあたりは難易度が高すぎるのかもしれない。

 

ホラーとギャグは紙一重

考えてみると、ビデオに映った井戸から女が這い出てきて、そのうえテレビからでてくるというのは可笑しい。ホラー演出は見方を変えればシュールギャグになる。

本作が怖くないのにはいくつか理由がある。上記したように悪魔が日本人には取り立てて恐怖の対象ではないこと。そして過剰な演出だろう。とくに終盤の演出はやり過ぎのせいで笑いが漏れるほどだ。

ティーヴンが燃えたときには、「お前が燃えるんかい!」とうすうすわかっていながら突っ込んだし、変貌したアニーの行動もギャグにしか見えない。宙に浮いたアニーが自分の首をザクザク刺すシーンは、恐怖よりもあっけにとられた。思えば、『エクソシスト』のブリッジで階段を駆け下りるシーンも、いまはパロディで笑いに変えられたりしている。極めつけは裸のおっさんおばさんだ。戸口に裸のおっさんが立っているのはたしかに怖いが、それはホラー映画の怖さではない。屋根裏で三人の裸の男女がピーターに笑いかけるシーンも笑いどころだし、それを見て絶叫したピーターが窓ガラスを突き破るのも面白い(このシーンは『悪魔のいけにえ』のパロディだろうか。もしピーターが女性主人公なら、二階から飛び降りても死ななかっただろう。ホラー映画における女性主人公の落下耐性は異常)。

本作では、ホラー映画として見られるのが後半からなのもつまらない点だ。ホラー映画としては二時間以上の長尺だが、前中盤においてホラーといえる箇所は数えるほどで、ひたすらピリピリするアニーとピーターの二人と、その間に立つ胃が痛くなりそうなスティーブンが描かれる。自分は二時間のうち半分はスティーブンの不憫さに同情しているだけだった。内容的にももう少し短くできただろうと思う。

肝心の悪魔崇拝者たちが怖くないのも問題か。エレンとジョーンが一緒に写る写真をアニーが見つけるシーンは、物語の核心に近づく重要なシーンだが、この写真がとても楽しそうに見える。エレンとジョーンが並んで笑っている写真や、エレンの頭上に金貨をばら撒いてはしゃぐ写真など、まるで老人会のようだ。似たような玄関マットを作っているところも、ますます老人会の感じが強まる。

ここまで酷評してきたが、もちろんいい点もある。家族四人の演技が良い。アニー役のトニ・コレットの演技は鬼気迫るものがあったし、ピーター役のアレックス・ウルフの絶叫演技。ガブリエル・バーン演じるスティーブンは家族の中でも特異な立ち位置だが、変貌する妻に冷静に接しつつも苦悩する様子は流石と言ったところ。一番印象的なのはチャーリー役のミリー・シャピロだろう。かなり幼く見えるが、撮影当時彼女は十五歳。チャーリーは十三歳だったが、ミリーは十三歳でも意外なほど幼く見えるし、また不気味でもある。これはメイクの力もあるだろうが、生気の感じられない雰囲気や、暗い目つきは正直ペイモンとかよりずっとゾッとするものがある。

演出に関しても、もう少し抑え気味にすれば怖く感じるものもあるだろう。過ぎたるは及ばざるがごとし。また、安易に驚かせるような演出を多用せず、どちらかというと観客に気づかせるタイプのものがあったのはプラス。

 

 

まとめ

海外と日本の恐怖に関する価値観の違いに気がつける作品。スローテンポのストーリーと過剰な演出により恐怖が大きく削がれている作品だが、光るところもある。監督はこれがデビュー作らしいので、どんどんホラーに挑戦して観客を楽しませてほしい。

 

余談

ヨーロッパ系の容姿であるアニーとスティーブンに対して、息子であるピーターがどこからどう見てもユダヤ系なのはなぜだろう。まったく似ていない親子に違和感を覚え、なにかの伏線だと思った人もいるのではないだろうか? 結局、なにもなかったが、もしかすると特別な意図が隠されているのかもしれない。